第三章 :タブー

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2  朝から大小合わせて10尾以上の山女魚を釣ってはリリースを繰り返した僕は、入渓地点まで戻って今朝と同じ岩の上に陣取り、握り飯とお新香を頬張っていた。それは朝食の際に、僕が美月にお願いしてこしらえて貰ったものだ。こんな山里にはコンビニも無いので、そういった具合に何らかの手段で昼食を調達する必要が有り、彼女は僕の申し出を二つ返事で快諾してくれたのだった。  川に入る前に、日帰り温泉の前に並ぶ自販機で購入しておいた烏龍茶で、口の中の飯粒を流し込んでいた時だ。僕が何とはなしに対岸に迫る土手を見上げると、緑に覆われた急峻な山肌の一部に、小豆色の特異点を見つけた。その動きに合わせて、周辺の草木もガサガサと揺れているのが判る。大気中に漂う細かな雨粒を透かして見るそれは、明らかに左から右へと山肌をトラバースしていた。  (猿か? 鹿か? ひょっとして熊か?)  僕は掌で庇を作って視界から薄灰色の空を締め出し、山肌のみに焦点を合わせた。そうすることによって僕の瞳孔は,深い緑のみの映像に合わせて光量調節を行い、例の特異点を一層際立たせるのだ。  それは、美月の弟であった。  山仕事の最中なのだろうか? 或いは、今宵の僕の食事の為に、山菜でも採ってくれているのだろうか? やはり昨日、川を下見に来た際に見つけた古びた墓地に向かう小径が、山肌に張り付くように通っているのだろう。普段は人が通らないそういった踏み痕は、いつの間にか人の背丈ほどもある雑草に覆われてしまうものなのだ。  ジッと見上げる僕の視線に気付いたかの様に動きを止めた彼は、顔を上げてこちらを見下ろした。遠くてその表情をはっきりと掴むことは出来ないが、密度の濃い細かな雨粒の層を挟んで、僕たちは見つめ合う形となった。  彼とこんな風に視線を交わすのは3回目だろうか。最初は僕が車で轢きそうになった時。次は民宿『大原間』の玄関先だったが、その後の彼は奥に引き上げたきり、一度も姿を現すことは無かった。僕が夕食を採っている間は自室にでも籠っていたのか ──無論、、僕が美月との会話に夢中になっていただけなのかもしれないが── その気配すら伝わって来てはいない。車のフロントウィンドウ越しでも、民宿の玄関においてでも、どちらも交わしたのは視線のみで、言葉は交わしていない。  僕にそんなつもりは無いのだが、こちらが声を掛ける前に、それを拒絶するかのような空気を残し、彼は立ち去ってしまうのだ。昨夜「不愛想な弟でお恥ずかしい」と言っていた美月の言葉が思い起こされた。  街から離れた閉鎖的な社会しか知らずに育った人間の中には、そういった人とのコミュニケーションの意義も重要性も、あるいはその(すべ)すら知らずに大人になってしまった者は多い。僕は、自分が社交的なタイプだとは決して思ってはいないが ──むしろ、その真逆と言って良いかもしれない── こうなった以上、挨拶ぐらいは交わすべきだろう。それが社会人としての礼節だ。ニコリと顔をほころばせて、僕は軽く右手を振った。  すると彼は僕に返礼するわけでもなく、表情を変えるわけでもなく、ただ黙って視線を逸らすと、そのまま藪を掻き分けるように移動を再開した。その後はザワザワと揺れる草木と、時折、垣間見える小豆色の雨合羽が右へ右へと動くのみであった。  僕のような希薄な社会経験しか持ち合わせていない者にすら、その異常なまでに他人を排斥する態度は目に余るものとして映ったが、全体を俯瞰してみれば、僕も彼も結局、同じカテゴリーの人間なのかもしれないとも思えた。程度の差こそあれ、二人は同一軸に並べるべき存在なのではなかろうか。  人のことをとやかく言えるほど、僕は出来た人間なのか? この歳で社会生活を捨て、気ままに旅をしているような奴が、何を偉そうなことを言っているのだ? そんなにご立派なら、何故、こんな生活を続けている?  行き場を失った僕の右手は、仕方なくポリポリと頭を掻いた。  まだ陽も高い時間帯であったが、相変わらず降り続く小糠雨と、ドンヨリと低く覆い被さる薄灰色の雲によって太陽の位置は不明瞭だ。お陰で気温も大して上がってはいない。もう少し気温が上がった方が魚の活性も上がるわけだが、ギラギラした日差しは魚を神経質にするので、ある意味、今が釣り易い状況である。また、この程度の雨であれば ──釣り人が濡れることを気にしなければ── 釣りには何の影響も無い。むしろ水面を打つ雨粒の波紋が、近付く人影をカモフラージュしてくれるので、釣り人に有利とすら言えるのは午前中の釣果を見れば自明であろう。  しかし僕は、何故かそれ以上釣る気が起きず、その場で竿を畳んだ。午後は部屋に戻り、読みかけの宮部みゆきの続きでも読んで過ごそう。相棒のゴルフの後部座席に放り込んである山崎を持ち込んで、夕食前に軽く飲んでもいいかもしれない。美月のことだ、少しくらい酒を持ち込んでも文句は言わないだろう。  僕は腰を据えていた岩から飛び降りて、日帰り温泉に向かって歩き始めた。その後ろ姿を、対岸の土手の上から見下ろす美月の弟の視線には気付くことも無く。
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