第四章 :雪渓のトンネル(6年前)

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2  その魚は流心の一級ポイントから飛び出して来た。岩魚だった。僕は首をひねる。  (このポイントから岩魚?)  一般的に言って山女魚や雨女魚は岩魚よりも攻撃的で、共棲流域では一番良い餌場を占領していることが多い。おっとりとした性格の岩魚は、気の強い山女魚、雨女魚に追い立てられて、流心から外れた水の弛みや岩陰などに身を寄せているものなのだ。従って、山女魚、雨女魚を「陽」或いは「動」とするなら、岩魚は「陰」または「静」なのである。  ところがこのポイントで最も餌の流下が多そうな一級の、つまり雨女魚が我が物顔で陣取っていそうな流心を僕の毛鉤が流れた時、顔を見せたのは意外にも岩魚だったのだ。  (そう言えば、さっきから岩魚しか釣れてないな・・・)  この平坦な流域に入ってからは、雨女魚が姿を消してしまったという事らしい。そもそも、こんな上流部まで雨女魚がいたことが不可解だが、不思議なことも有るもんだと感じながらも、更に釣り登ってゆくと、何やらヒンヤリした空気が立ち込めていることに気付いた。  確かに鬱蒼と茂る森に囲まれた谷間では、このような冷気が淀んでいることは多い。しかし、今僕の周りを取り巻く空気は、明らかに異質な冷たさだ。丁度、冷蔵庫を開いた時に零れ出た空気が、足元を冷やすような感覚に似ていた。しかも、良く目を凝らしてみると、何だか霧のようなものが漂っているではないか。それは明らかに、これから向かう上流部から流れて来ていて、この谷間を音も無く滑り降りていた。  薄暗く口を開く森と渓流は、あたかも幽玄の世界へと通ずる入り口のようである。そこから流れてくる冷気がまさに霊気となって、霧に紛れさせてを運ぼうと企んでいるように感じたとしても不思議ではない。事実、山にまつわる霊的な怪奇譚は枚挙にいとまが無く、僕自身、不思議な経験が無いわけではない。  しかしそれは、この雄大な大自然の中に一人、ポツンと取り残されたような状況に身を置くことよって励起された、動物的な恐怖が成せる業であることも知っている。こんな状況で、そういった精神状態になるのは、DNAに刻まれた人間の本質なのだ。  僕は自分の心に湧いた原始的な恐怖心を、現代的な合理主義と最新の科学的知識で強引に抑え込み、うっすらと漂う霧の中で釣りを続けた。そして相変わらず岩魚だけを釣り上げながら、川が右に折れる屈曲点を過ぎた時、それが僕の前に立ちはだかった。  (雪渓だ!)  そもそも雪渓とは、雪で埋まった渓谷を表す言葉であるが、僕の目の前に鎮座するそれは、その名残を留める雪のトンネルであった。水の流れている部分は溶けてポッカリと口を開け、大人が3・4人並んで、立って歩けるほどの空洞が形成されている。高さ5メートルほどのそれは、川幅がギュッと幅が狭まった地点に特有のもので、右岸と左岸を橋渡しするように架かる雪のアーチだ。  そして特徴的なのは、トンネルの入り口からモクモクと霧が吐き出されていることであろう。春の訪れと共に気温は上がるが、雪のトンネルを抜けてくる空気は冷たい。従ってその両者が混じり合った時、露点を下回った空気中の水分が凝縮して、霧となって姿を現すのである。つまりこれは、通常の雪渓ではなく、トンネル化した雪渓に特有の現象なのだ。  事実、この少し下流で霧の存在を認めた時、僕はこの雪渓の存在を予見していた。それこそが、怪しげな霧に包まれた時に湧き上がった恐怖心をねじ伏せる為の、最も強力な理論武装だったのだ。更に言えば、もっと下流で極端な低水温を確認した際も、雪渓が見られるのではないかと期待していたのだ。  しかし、釣りの視点から言えばこの雪渓は厄介者だ。雪のアーチが十分に分厚ければ、その上を越えて更に上流へと進むことも可能だが、薄くて上を歩くことが困難な場合は、トンネルの中を進むしかない。だが、あまりにも雪が薄いと一気に崩落が起こり、その下敷きとなって命を落とすことも有るのだ。  外見は白い雪であっても、冬の間に自身の重みで圧縮された谷底のそれは、丁度、フィヨルドを流れる氷河と変わりなく、コンクリートのように硬化したそれがバラバラと頭上から降り注いだらまず助からない。見た目は楽し気な雪のトンネルだが、チョッとした弾みで ──例えば声を出すとかで── 大惨事が起こることも珍しくは無く、パーティーを組んで登っている時に雪渓に出くわした場合は、最悪の事態を想定して一人ずつ抜けて行くのが常識なのである。  見たところ、その雪渓は薄く上を越えて行くことは不可能であった。かと言って安全に下を通れるほど盤石なアーチかと言えば、そうでもない。つまり、いつ崩れてもおかしくない程に痩せ細った雪渓の残渣なのであった。  僕は一瞬だけ躊躇ったが、直ぐに踵を返して、釣り登って来た流れを下り始めた。特に単独釣行の場合は、危険を冒すわけにはいかない。何か有った時に助けてくれる仲間が居ないのだから。  先ほど、傾斜が緩やかになった辺りで休憩した、山毛欅の巨木の後ろが丁度良く高台になっていた事を僕は思い出していた。あそこならテントを張るには好都合だろう。運良く、今夜中に雪渓が崩れ落ちて、明日はその先へと安全に遡行することが出来るかもしれない。もし明日になっても状況が変わっていなければ、潔く山を下りよう。  僕は既に、焚火を前にして飲む大吟醸の旨さを想い、心を浮き立たせていた。
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