第四章 :雪渓のトンネル(6年前)

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3  パチンと爆ぜる焚火を前に、僕は今日一日の余韻に浸っていた。  昼間の遡行で酷使した脚が鈍い痛みを伴って休息の必要性を主張しているが、両脚のあらゆる筋肉に入念なマッサージを施しておけば、明日もまた険しい遡行に耐え抜いてくれることを僕は知っていた。20台の頃のようにはいかないが、まだまだ老け込むには早いと思っている。  夕食は茹でたパスタに、レトルトのトマトソースをぶっ掛けただけの男飯。かつてのように仲間とワイワイやっていた頃ならば、数匹だけキープした良型の岩魚を刺身にしたり、塩焼きにして炒飯の具にしたりと、色々手の込んだことをやって愉しんだものだが、今は一人。単独釣行の場合はそんなイベントはやらない。むしろ、たっぷりと有る時間を自分一人だけの為に使うのだ。  そんな時、いったい何をするのかって?  僕の場合、別に何もしない。「何もしない」をしに山に入るのだ。ペットボトルに移し替えておいた大吟醸をザックの底から掘り出し、焚火の揺らめきを肴にチビチビやる。一人なので会話も無い。そんな時間を過ごすのが好きなのだ。  スマホに仕込んでおいた音楽を流すような、そんな無粋なことは ──熊除けの効果が有ることは否定できないが── 決してしない。虫の声や梟の声、微かに蠢く小動物が立てる物音。森の木々が風に葉を揺らす音に、直ぐ近くを流れ続けるせせらぎの調べ。そういったものが有れば音楽など必要ないのだ。  下火になった()きに、明るいうちに集めておいた枯れ枝をくべると、煽られた火の粉がパチパチと鳴りながら立ち昇ってゆく。その短い一生を見送りながら、更に一口、大吟醸を口に含む。不規則なダンスを踊りながら立ち昇る火の粉は、森と空の境目辺りで闇に溶けた。  こんな風に焚火を眺めていると、昔、友人と分け入った数々の山を、川を、森を思い出す。焚火を挟んで交わした会話を思い出す。そして、もう会うことも無い彼の面影を思い出す。  あれは確か、就職した年の翌々年だったろうか。青森の山に遠征し、今日のような雪渓に出くわした僕たちは、おっかなびっくりしながら雪のトンネルを越えたのだった。 *****  先行した相澤がまずトンネルに潜り、その向こう側の出口からトランシーバーで伝えてきた。  ─ 大丈夫。50メートルほどで抜けられるよ ─  ─ オッケー。ヤバそうな箇所は無い? ─  ─ 途中、すっごく薄くなってる所が有るから、そこは気をつけた方がいいかも ─  ─ 了解。じゃぁ今から入りま~す ─  雪渓のトンネルの中は、予想以上にヒンヤリしていた。その天井はうっすらと外の明かりを透かし、不思議なまだら模様を描いている。それは雪の層が薄いことを示しているわけで、このトンネルが崩壊するのも、そう遠い未来ではないということだ。その証拠に、天井のあちこちから滴る雫が、サラサラと足元を洗う水音に「ポタリ、ポタリ」とアクセントを加え、刻一刻と溶解が進んでいることを告げている。  こういった状況で大きな音を立てたりすると、その反響によって崩落が始まることが有るのは、沢登りをする人間なら誰でも知っている。僕は躓いたりしないよう、細心の注意を払いながら、それでも急ぎ足で先に進んだ。  暫く行くと、妙に明るい一角に出た。相澤がトランシーバーで言っていた「ヤバそうな箇所」だ。岩肌を伝う水に触発された雪が溶け、部分的に穴が開いている。そこから漏れ入る光はしっとりと濡れた岩に反射し、薄暗い劇場に浮かび上がる舞台のように見えた。  その時、予想だにしていなかった大きな音がトンネル内に響いた。  「はっ・・・ くしょ――んっ!!!」  その音、いや声は、「グワン、グワン」という残響を伴って、トンネル内を駆け抜けた。僕は目を丸くして固まり、動きを止める。するとその残響による振動に刺激され、天井に開いた穴の周りが直径1メートルほど崩落した。  ガラガラガラッ・・・。  「や、やべぇっ!」  僕は相澤の待つ上流方向に向かって、一気に駆け出した。  バシャ―ン! ガラガラガラ!  その音を背中で聞きながら、アドレナリンが沸騰する頭で僕は考えた。崩落は一部分だけで済んだのか? 連鎖的に全体が崩れ落ちる兆候は無いか? 僕は天井を見上げながら、必死に上流を目指した。  しかし、あまり大きな音は立てられない。先ほどの崩落が運良く一時的なものだったとしても、僕の立てる音が更なる崩落を招く可能性が有るからだ。急いでいるのに急がない。走っているのに走らない。そんな怪しげな足取りで出口に到達すると、相澤が腹を抱えて笑っていた。  「がはははは――っ、悪い悪い。我慢したんだけど、つい・・・ ブゥ―――ッ、わっはっは。お前の必死こいた顔・・・ イ――ヒッヒッヒ」  ほうほうの体でトンネルから出てきた僕は、頭から湯気を立てながら抗議する。  「笑い事じゃねぇよ、馬鹿野郎! ふざけんな! もうちょっとで死ぬとこだったじゃねぇか!」 *****  僕はウレタンマットの上でゴロンと横になって、クスリと思い出し笑いをした。腕を頭の後ろに組んで夜空を見上げると、暗く沈む稜線の狭間で瞬く星明りが、まさに天の川のようではないか。それはまるで、僕を圧し潰さんとするかの如く覆い被さって来て、僕の体重を支えていた地面をグィと押しやった。すると、いつの間にか地面に別れを告げた僕の心は、それら星々が漂う空間にのみ込まれていた。  悠久の時の流れの中で身を削り、自身の命が燃え尽きるまで漆黒を照らし続ける星々。彼らは何時でも、何処でも、誰にでも同じ慈悲の光を降り注いでいるのだろうか? それとも、こんなちっぽけな有機生命体のことなどお構いなしに、静かに自分の最期を待っているだけなのだろうか?  ひょっとしたらこの中に、こんな僕を受け入れてくれる星が有るかもしれない。  頬を伝う涙が一筋の跡を残した。僕はその時、ずっと心に仕舞い込んできた、を思い出していた。雪渓のトンネルで笑いあったあの日から1年後の出来事を。
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