第六章 :錆びた看板  (14年前)

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2  朝起きてテントを撤収する。前日にコンビニで買い込んでおいたお握りなどで軽い食事を済ますと、僕と相澤は日帰り装備を詰めたデイパックを背負い、その先の林道へと足を踏み入れた。林道そのものは、まだまだ奥へと続いていて、山を越えた反対側にまで到達しているのだが、そこには車の進入を防止する地元営林署のゲートが有り、ここから先へは徒歩でしか進めないのだ。  この徒歩に費やす時間を使って、眠っていた全身の細胞を目覚めさせ、釣りに向けた完全な戦闘モードに移行する。最初は身体が重く息も上がりがちだが、ある時間を経過すると不思議と身体が軽くなるのは、山登りの経験がある人ならお馴染みの現象だろう。おそらく体内の糖を消費し切り、体脂肪燃焼のゾーンに突入するからだと僕は思っているが、医学や生理学の専門家ではないので本当のところは判らない。  そして、テクテク歩くこと1時間。歩き始めて暫くは川が遠すぎてアプローチできないが、1時間も歩けば林道と川が接近してくるのがここの特徴だ。そうなれば、任意の地点から土手を降りて行くことで、川へと降り立つことが可能なのだ。  しばらく歩くと堰堤の存在を告げる、見覚え有る看板が目に入ってきた。かつての林道工事の際に使われていたものと思しきそれは、長年の風雨に晒されて錆び付き、冬の雪の重さに耐えかねて根元からポッキリ折れて転がっていた。それを目印として林道を逸れ、右手下方に広がる森を更に15分ほどかけて抜けると、僕たちが以前釣りを開始した入渓ポイントなのだ。  どちらから言い出すとも無く、僕たちはその看板の前に座り込み、汗ばんだ身体を冷却した。ここから先、熊笹が生い茂る森を抜けるのがまた一苦労なのだ。その下草との格闘を乗り切るためには、僕にも相澤にも十分な休息が必要である。二人はそれぞれのデイパックからお茶やスポーツドリングを取り出し、グビグビと喉を鳴らして飲むのだった。  「ここって、こんなに近かったっけ? もう少し歩いた記憶が有るんだけどなぁ」  相澤がそう聞くと、僕はさも承知していたかのように応えた。僕自身、全くもって彼と同じ感触を持っていたのだが、意味も無く知った風なことを口にしてしまうのは、僕のいつもの癖である。  「こんなもんだったよ。あの時は一泊装備を背負ってたから、もっと苦労して歩いた気がするんじゃないか?」  「そうかなぁ・・・」  相澤は不満そうな声を漏らした。  十分な休憩を終え活力を取り戻した僕たちは、再び立ち上がると、獣道の続く森の中へと分け入って行った。しかし、林道を逸れる目印としていた看板が実は、本当に少し手前に置かれていたことに、僕たちは気付いていなかった。  つまり、僕たちが進み始めた森は、実は一度も足を踏み入れたことが無いエリアだったのだ。尾根にしてみれば、一つか二つズレただけの大した距離ではないはずだ。だが、こういった状況で最も危険なのは、そこを「知っている森」だと思い込んでいることなのだ。  きっと、雪で破壊されたそれを谷底から回収した営林署が、元有った場所とは違う所に置いてしまったのだろう。林道工事の際は必要だった看板も、今となっては用済みである。従って、回収した看板を、完璧に元の位置に戻さなかったとしても、誰が非難できようか。  「ここ、何処だ? 見覚え有る?」  藪を掻き分け始めて暫く経った頃、最初に違和感を口にしたのは相澤だった。僕自身、その森の風景に見覚えが有ったわけではないが、もう少し進めば川に到達すると思うと、どうしても気が焦ってしまった。早く釣りをしたい。そんな思いで僕は応えた。  「大丈夫だよ、このまま進もうよ。ほら、もう川の音が聞こえる。直ぐそこだって」  確かに耳をすませば、微かに水音が聞こえた。少々強引にでもこの藪を突っ切れば、川には到達できそうだ。  しかし慎重派の相澤はデイパックを降ろし、その中から国土地理院の二万五千分の一の地形図を取り出して、周囲の地形と比べ始めた。一度訪れたことが有る川なので、地形図など必要ではないと思っていたが、彼はまさかの場合に備えて持ち込んでいたのだ。  そしてウンウン唸りながら首をかしげる。  「おかしいな・・・ 前に来た所とは違うみたいだな・・・」  「えぇっ、マジ?」  そう言って覗き込む僕に、相澤が指で指し示したのは、その地形図の端っこの方だ。  「多分、この尾根があれだろ?」そう言って地形図と山を交互に指差す。「んで、この高圧線があそこに見える奴だよね」  僕は技術系だが、実はあまり地形図が得意ではない。そもそも、北を上にしないで見る地図など、全く意味が判らない。僕は彼が言うがまま、ただ何となく「うん、うん」と相槌を打つだけだ。  「ってことは、今、この地形図の外側・・・ この辺に居るんだと思うけどなぁ」と、何も無い空間を指差す相澤に、僕はまたしてもいい加減なことを言った。  「じゃぁさ、あの尾根の先を降りて行けば、川に出られるんじゃない?」と指をさす。  「そうかもしんないけど・・・ 一旦、林道まで戻った方が良くないか?」  「平気だって。行ってみようよ。ダメそうだったらまた引き返せばいいじゃん」  考えた結果として「行ってみよう」と言ったわけではなく、早く釣りがしたいがために出た言葉だ。状況を熟慮した相澤の言葉と、僕の浅はかな言葉を同列に比較できると思っていることがそもそもの間違いなのに、僕はそこでも不真面目な態度を改めることが無かった。  結局、明確な合意も意見の一致も得ずに、ザワザワと藪漕ぎを再開した僕には何も言わず、相澤はデイパックを背負い直したのであった。
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