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「こんな田舎に、ようこそいらっしゃいました」
そう言って先を行く女の豊かな臀部が、僕の目の前で左右に揺れている。踏みしめる度にキコキコと鳴る狭い階段を昇って、彼女が僕を二階の部屋へと案内しているからだ。僕はその腰に纏わりつくタイトなジーンズ生地の下に潜む柔らかなものの感触を想像し、同時に見知らぬ女性をそのような卑猥な眼差しで見ている自分の悍ましさを感じ、思わず目を背けて「えぇ」とだけ答えた。
階段を昇り切って左に伸びる廊下は表通りに面していて、同じような部屋が四つほど並んでいる。僕はその一番奥に ──おそらく角部屋の方が窓が多いからだろう── 通された。残りの三部屋も含め、全ての部屋の入口は開け放たれていて、他に宿泊客は居ないようだ。各部屋の全開にされた障子の引き戸の奥には、脚を折り畳める卓袱台と湯呑みセット。それから小さなテレビと、きちんと畳まれた数人分の布団が折り重なっているのが見えた。
「釣りですか?」一番奥の部屋に先に入った彼女が、窓を開けながら話しかけた。
彼女に続いて部屋に入った僕は、隅に重ねてあった座布団を一枚敷くと、卓袱台の前で胡坐をかいた。
「えぇ、月井内川では釣ったことが無いので、二泊ほどかけて探ってみようかなと。あっそうだ、表に『遊漁券販売所』の看板が出ていましたが・・・」
彼女は僕一人分の布団だけを残し、残りの布団セットを「よいしょ」と言って持ち上げようとしたが、さすがに数人分を一度に運ぶのは無理が有ったようだ。その重さに堪え切れずヨタついて、「クスリ」と恥ずかしそうに笑うと、まず一人分だけを持ち上げ直した。それを見た僕は慌てて立ち上がり、「手伝います」といって残りの布団を抱えた。
「あぁ、有難うございます。じゃぁ、取り敢えず隣の部屋に・・・」
少し湿って重さが増している布団を抱えたまま、彼女に続いて隣室に行くと、窓が無くて薄暗い空間に微かな黴の匂いが漂っていた。しかし、それを補って余りある彼女の甘い香りが、僕の鼻腔をくすぐっている。薄暗い部屋で見る彼女の姿は色味を失い、モノトーンの写真の様だ。それが何だか妙に艶めかしく感じてしまうのは、彼女の美貌によるものだろうか。
「日釣り券ですね? はい、取り扱ってます。明日から釣られます? でしたら明日の朝食の時にお渡ししますが」
そう笑う彼女の笑顔を見た時の印象は『柔らかい』であった。彼女の何がどう柔らかいのか、僕には説明することは出来ないのだが、とにかくそれを見た時に感じたものを素直に言葉にすれば、『柔らかい』だったのだ。
僕は「お願いします」と言った。
余分な布団を運び込んだ部屋から出ると、彼女は右に向かって進みながら言った。それを僕は左に進みながら ──つまり自分の部屋に戻りながら── 聞いた。
「今晩のお食事は六時で宜しいですか? もっと遅くも出来ますけど」
「じゃぁ六時半くらいでお願いできますか?」
「六時半ですね、承知しました。では時間になったら、下の広間までお越し下さい。準備しておきますので」
「判りました。では六時半に」
「あっ、そうそう。これを」
階段の方に戻りかけた彼女が、そう言ってエプロンのポケットから取り出したのは、小さな黄色い紙切れだ。そこには『月井内川温泉入浴券』と、安っぽい印刷で記されている。先ほどUターンしてきた日帰り温泉の入浴券である。
「お風呂は上の温泉をお上がりください。大した距離じゃありませんから、散歩がてら歩いて行くお客さんも多いですよ」
「あっ、有難うございます」
僕は丁寧にそれを受け取った。軽く会釈をした彼女は僕に背を向け、再び階段に向かって歩き出す。その後姿を見送る僕の目は、恥ずかしながら、またしても彼女の形の良い下半身に吸い寄せられていた。同時に、その豊かさを強調しているのは、その上の引き締まった腰であることも発見した。廊下を進んで右手の階段を下り始める間際、彼女がこちらを振り返ってニコリと笑いかけてきた。僕は阿呆の様に見入っていたことがバレてしまったと思い、慌てて視線を上げる。そして彼女に見透かされた(かもしれない)、自分の下劣なスケベ心を誤魔化すかのように、必要のない質問を口にしていた。
「つ、燕・・・」
「はい?」彼女はポカンとした顔を向けた。
「家の中に燕の巣が有るんですね?」
「あぁ、はい。毎年この季節になると・・・ あっ、ひょっとしてお嫌いですか?」
「いえ、全然。じゃぁ、僕は温泉に行ってきます」と言って、先ほど手渡された入浴券をヒラヒラさせた。彼女は再びニコッと笑って、階段を下りていった。
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