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雨が降り出していたが、濡れるほどではなかった。僕は念のため着替えやバスタオルと一緒に折り畳み傘も持ち出していたが、わざわざ差すほどの降りにはならなさそうだ。テクテクと5分ほどの徒歩で向かったのは、例の日帰り温泉である。温泉施設の玄関上では、先ほどの民宿と同じように燕が子育てに勤しんでいるようで、玄関の自動ドアに『頭上、糞害注意』の張り紙が見えた。
周辺の草刈りをしていた男衆は、本日の仕事を終わらせて既に解散し、各々の家に撤収しているようだ。昼間にこの谷合を賑わしていた草刈り機のエンジン音は影を潜め、今はヒグラシの声が物悲しく満ちていた。
下駄箱にサンダルを突っ込んで、宿で貰った入浴券を受付のおばさんに手渡すと、彼女は老眼鏡の奥からそれを見て「はいはい大原間さんね。いらっしゃいませ」と愛想よく応えた。しかし彼女は、本心からそう言っているわけではなさそうで、僕もそれに合わせて愛想笑いを返すだけに留めておいた。
そしてそのまま「男湯」の暖簾をくぐり、照明が煌々と点いた脱衣所に足を踏み入れる。籐のベンチなどが置かれた脱衣所には誰も見当たらない。なのに、壁に取り付けられた扇風機は、無人の室内の空気をかき回すためにしきりと首を振っていた。
見回すと、一つの駕篭に着衣が無造作に放り込まれていて、先客が一人いるらしい。服を脱いだ僕は貴重品をロッカーに仕舞うと、そのキーを手首に付けて浴室のアルミの引き戸をくぐる。途端にムッとするような湯気に纏わり付かれ、引き戸を閉めた振動によって、天井から滴った湯気が僕の肩に冷たく降り注いだ。
転がっていた洗面器を使ってお湯をすくい、身体をサッと流す。そして早速湯船に浸かり、僕は長時間のドライブで疲労した両手足を伸ばした。ついつい「うんッ」と声に出てしまったのは、温泉が気持ち良かったのも一因であるが、民宿の女主人(?)のことで上機嫌だったからに他ならない。その浴室には、僕の他には地元の頑固そうな老人が一人、不機嫌そうな顔をしたまま忙しなく体を洗っているのみだ。その老人が不機嫌であればあるほど、僕は益々気分が良くなるような不思議なシーソー感覚が可笑しくて、更に上機嫌になるのだった。
あんな綺麗な女性が切り盛りする民宿に当たるなんて、途轍もなくラッキーな気がした。別に彼女とどうにかなるなんて思ってやしないが、それでも綺麗な女性が近くにいてくれるだけで、何となく心は浮き立つものだ。それは「鼻の下を伸ばす」と表現するのが適切な状態なのかもしれないが、この時の僕は早く風呂を上がって宿に帰ることしか考えていなかった。夕食の際は、もう少し親しく会話できるだろう。
熱くもなく、温くもなく、丁度いいお湯に肩まで浸かり、顔をバシャバシャと擦りながら彼女のことを考える。
(何歳くらいだろう?)
第一印象は30前といった感じだったが、既に30を越えているだろうか? そこまで考えた僕は、当然ながら行き付く疑問にぶち当たった。僕らくらいの年齢の男女が ──と言っても、僕は今年でもう四十路なのだが── なんとなく気になる異性を見た時は、性別問わずこの疑問が頭を過るものだ。
(独身か?)
まさか一人であの民宿を経営しているわけではあるまい。あんな綺麗な女性が30歳まで独身だなんて、そっちの方が不自然ではないか。避けようのない真実を突きつけらたような気がして、先ほどまでのウキウキは一気に収縮し始めた。
(指輪はしていたか?)
彼女の左手に注意を払わなかった自分を、僕は叱責した。文字通り鼻の下を伸ばして、キュッと引き締まった尻ばかりに目を奪われ、肝心な所に目配りすることを忘れていた愚か者め。そんな「抜けさく君」だから、会社でも上手くやっていけなかったんじゃないか。あれから何年経つと思っているのだ? 全く成長していないではないか。
しかし僕は、もっと本質的なことを見落としていることに気付いていた。気付いていながら、そこから目を逸らしている自分の正体を知っていた。彼女が独身だったら何だというのだ? それによってお前の行動に、何か変化が訪れるのか? いつものように尻尾を巻いて逃げるだけじゃないか? それこそが、お前が愚か者たる所以であることを、いつになったら学ぶのだ?
沈痛な面持ちのままふと横を見ると、先ほどまで憮然とした表情で身体を洗っていた老人が隣にいた。老人はタオルを頭に載せ、黙想するかのように目を瞑っている。その顔は僕が入って来た時とは異なり、悟りの境地を行く高僧の如く静かな威厳を湛えているようにすら見えた。シーソーは反対側に傾いたようだ。
風呂上がりの帰りは少し雨脚が強まり、僕は傘を差して歩いた。夕暮れの田舎町を歩いていると、何だかタイムリープしたかのような気分だ。決して豊かとは言えない山村ではあったが、どことなく懐かしさを感じさせる街並みが気に入った。
そもそも「豊か」って何だ? 都会の生活に付随する、あらゆる利便性の総称をそう呼ぶのだろうか? それとも、高価な物品で彩られた生活空間がそれなのだろうか? いずれにせよ僕の肌は、それらには馴染めなかったようだ。
地元の大学を出て東京に就職し、それまで知ることの無かった刺激に身を委ねた日々。確かに最初は、それが楽しかった。日本中から異なるバックグラウンドを背負って集まって来た同僚たちと共に過ごした日々は、今でも思い出深い記憶である。給料だって、僕の遊びの欲求を満たして余りある額が支給された。でも、あれを豊かな生活と言って良いのだろうか?
それらが、自分にとって必要不可欠なものだったのかという問いには、否と答えるしかないのである。それらが僕の求める物、更に言えば、生きてゆく上で目標とすべきものなのかと問われれば、自信を持って然りと答えられない何かの存在を、自分自身に中に意識しながら都会で生き続けた。
(じゃぁ、お前のゴールは?)
自問しても答えが出ないからこそ、こんなタンブルウィードのような生活を続けているのだ。いい歳して「自分探しの旅」とは我ながら結構なご身分だと思うし、この歳になって、まだそんなことをしているなんて、いったい今まで何をやっていたんだと言われても返す言葉が無い。今は殆ど付き合いが無くなってしまったが、かつての友人たちはどうやって自分の居場所を見つけたのだろう? それとも居場所って、見つけるものではなく、「ココにしよう」って決めるものなのだろうか? 僕はそんな取り留めも無い想いを抱きながら、ゆっくりとした足取りで小雨が濡らす通りを歩いていった。
その時、ふと足元を見るとアスファルト上に残る黒いスリップ痕を見つけた。あの林業従事者風の若い男を轢きそうになって踏んだ、自分の急ブレーキの痕だ。それと同時に、フロントウィンドウ越しに見えた男の、あらゆる感情の起伏を失った目が思い出された。あの眼差しに射すくめられただけで、自分の感情まで吸い取られてしまいそうだった。温泉で火照ったはずの背筋に悪寒が走り、僕はブルリと身体を震わせて宿へと向かう脚を速めるのであった。
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