第一章 :民宿『大原間』

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5  その男は突然、僕の前に現れた。「ただいまー」と言いながら民宿『大原間』の玄関を開けると、丁度、男が雨に濡れた合羽を脱いでいるところだった。つまり、突然現れたのは僕の方だったのだけれども。  男は見慣れぬ僕を、例の感情の籠らない眼差しで窺う。危うく車で轢かれそうになった男が、今、目の前にいる僕であると認識しただろうか? 彼は冷たい視線で僕を一瞥すると、何も言わずに玄関を上がり奥へと姿を消した。その際、腰に巻いたベルトごと鋸を外し、燕の雛が眠る柱時計の下に無造作に放り投げて、自分がこの民宿の住人であることを部外者である僕に知らしめた。  「おかえりなさーい。晩御飯の準備、出来てますのでー」  男が消えた廊下の先から、あの女性の声が伝わって来た。僕の自分勝手な想像やら夢想は完全に霧散し、心の中は全くもって凪いだ湖面の様になってしまった。あの男の視線には、やはり人の感情を吸い取ってしまうような不思議な力が有るのかもしれない。僕は自分の第一印象が的を得ていたことを客観的に認知し、そしてそれ以上は何も思わなかった。ただ黙って階段を昇り、部屋へと向かった。  「そうですか! 弟さんだったんですか?」  年甲斐も無く、女子高生の様に乱高下する僕の感情は、ローラーコースターの(いただき)で大はしゃぎしていた。上り切ったコースターは下るしかないことには気付かず、刹那的な興奮に身を委ねていたのだ。  「えぇ。全く不愛想な弟で、お恥ずかしいです」彼女はホンノリと紅潮した頬で、恥ずかしそうに受けた。  今から30分ほど前、僕が一階のガランとした広間で一人 ──宿泊客の多い時期は、ここに大勢の人が集まって食事をするのだろう── 山菜鍋をメインとする山菜尽くしの夕食を採っていると、台所仕事がひと段落した彼女が、僕の座る卓袱台に燗をつけた二合徳利を持って現れた。  その時の僕は、玄関で見かけた男のことで ──つまり、その男と彼女との関係性に関する邪推で── 気が滅入っており、取り立てて美味しく食事をしていたわけではなかったが、やはり綺麗な女性が居れば心は浮き立つものだ。しかも彼女は、盆の上に二つのお猪口を載せており、僕と差しで呑むつもりである。きっとそれが、この民宿の接客の基本形なのだろうが、それを見た僕は、先ほどまでの泥のような気分が突然ふわふわと浮き立つのを感じたのだった。  改めて確認したところ、左手の薬指に指輪は見当たらない。更に、例の男が彼女の弟だと聞かされれば、思わず口数も多くなるというものだ。全くもって節操の無い自分を恥じつつも、さっきまでは味も素っ気も無かった「ふきのとうの天婦羅」の仄かな苦みに舌鼓を打つという為体(ていたらく)である。  「美月さんは、お一人でこの民宿を切り盛りされているんですか?」  この地方の地酒だろうか、旨口の吟醸酒を差しつ差されつしながら、さも興味も無さそうな風情を装って聞き出した「美月」という名前をさりげなく混ぜ込んで親近感を醸し出しつつ、僕は更に突っ込んだ質問をした。「お一人で」という言葉の裏には「独身ですか?」という質問が隠されていることは言うまでもない。  無論、彼女も僕のそんなスケベ心に気付いているのかもしれないが、進む熱燗のせいでお互いの口も軽くなっているようだ。二人の間に立ちはだかっていた塀 ──それは宿主と宿泊客という、ドライな関係である── のような物が少しずつ低くなってきているのを、お互いに感じていた。  「はい、夏場は。でも私一人でお世話できるお客様は、せいぜい二組くらいなんです。だからスキー客で賑わう冬だけは・・・ 冬は山仕事も有りませんし、弟も民宿仕事に駆り出してます」  酔いが回って少し舌っ足らずな感じが、なんとも色っぽい。  「織田さんは、あちこち釣りをしていらっしゃるんですよね?」  今度は彼女の方から探りを入れてきた・・・ と僕は思った。この勘違いこそがアルコールのなせる業なのだろう。そこに有るのか無いのかすら判らない「意図」を感じ取ってしまった僕は、それがただの世間話なのか、それとも本当に僕の素性を探っているのかを吟味することもせず、彼女が聞きたがっているのであろうと思しき情報を付け加えて答えていた。だって、さっきまでは「お客さん」と呼ばれていたのに、いつの間にか宿泊者台帳に記入した名前で呼ばれていることに気付いたからだ。そのうち、下の名前で呼ばれるかもしれない。きっとそうなるに違いない、などと根拠の無い妄想が再び膨らんでいた。  「えぇ、大学卒業後から勤めていた東京の会社を辞めましてね。なんか違うなぁって思っちゃって。それで暫くの間、大好きな釣りをしながら、日本中あちこちを旅して回っているような感じです」  要は、養うべき家族も居ないプータロー ──つまり自分も独身であるという情報が含まれているのだ── だと言っているに過ぎないのだが、何となく格好を付けた言い回しになるのはご勘弁頂きたい。恋人がいたことも無い男が、旅先で出会った綺麗な女性との行きずりの会話を愉しんでいるのだ。少しくらい見栄を張ったっていいじゃないか、と僕は思う。しかもこの生活を、もうかれこれ十年も続けていることが知れれば、ただの人生の落後者であることが露呈してしまって、少しばかりのスリリングで甘酸っぱい会話も、たちどころに終わりを告げる儚い夢のようなものなのだから。  結局、その晩、彼女が僕のことを「京輔さん」と呼んでくれることは無かったが、二人は様々なことを語り合った。かなり酒も回って、どんな話をしたのか細かい所までは憶えていないのが情けないが、女性と二人っきりで話し込んだ時間が僕を有頂天にしていた。自分の人生を振り返ってみても、女性と差しで呑んだことなど一度として無いではないか。学生時代ですら、友人というくくりのグループ内に混ざる女性としか呑んだことが無い。  既に夜の十時を過ぎた頃であろう。割り当てられた自室に引き上げた僕は、角部屋に付与された特権、つまり部屋の側面に穿かれた窓を開け放し、そこに腰かけて夜風に当たりながら酔いを醒ましていた。虫が寄って来るので、部屋の照明は落としたままだ。そうやって暗闇に浮かんでは消える美月の表情や仕草など、彼女の『柔らか』な残像を弄びながら、今でも鼓膜に残る彼女の声と、シトシトと軒を打つ雨音の協調を愉しんだ。  そして、車の行き来も途絶えた表の通りにふと目をやると、赤地に白の細かい水玉模様と思しき傘を差した美月が、心細い街灯が作り出す光の円錐を足早に横切った。彼女が作り出す鮮やかな色彩が、鄙びた山村の夜に一瞬だけ浮かび上がったかと思うと、再び暗闇の中に溶けていった。
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