第三章 :タブー

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第三章 :タブー

1  昨夜からシトシトと降り続く雨が、民宿『大原間』の玄関先を濡らしていた。朝起きて寝ぼけ(まなこ)のまま一階に下り、共同の洗面所でボーッと歯を磨いていると、車通りの少ない道路の向こう側に、僕のくたびれたゴルフが寂し気に雨に打たれているのが目に付いた。  との付き合いは、もう6年目だろうか。共にあちこちを旅して、色んな川で釣りをした相棒である。最初は北関東。信州や北陸にも行った。そして今は東北である。時には乱暴な運転もしたし、到底、車では通れないような林道の藪を掻き分けながら走ったことも有る。おかげで、新車で購入してから6年という年数以上にくたびれて、あちこちにガタが来ていることは知っている。  そんな無謀な旅に、文句の一つも言わずに付き合ってくれた相棒が、今安らかに眠っているのだ。僕は奴を、もう少しの間、静かに眠らせてあげたいというような気分になっていた。  キンと冷えた水道水で口をゆすいで、意を決して顔も洗った。  バシャバシャ・・・ バシャバシャ・・・  全身の毛穴が縮み上がりそうな冷水だ。そして冷えた顔面を温めようと、首に掛けていたタオルで乾布摩擦よろしくゴシゴシと擦っていると、背後に人の気配を感じた。  「おはようございます。お早いですね。よく眠れましたか?」美月だった。  「えぇ、ぐっすり。運転で疲れていたんでしょうね。歳はとりたくないもんです」  僕の眠気は一瞬にして消え去り、キリリとした表情を取り繕って答えたが、乾布摩擦のせいで、新橋の酔っ払いサラリーマンのような、みっともない赤ら顔になっていることには気付いてはいなかった。  「生憎(あいにく)の雨ですが・・・ 釣られます? もし釣るなら日釣り券をご用意しますが」  朝イチで見る彼女は、また一段と美しかった。昨夜の大吟醸でホンノリとした色っぽさを振り撒いていた時とは、また違った色気がそこには有った。  「そうですねぇ・・・」僕は振り返って窓の外を見た。「一応、行ってみますかね。大した降りじゃなさそうだし」  視線を戻した僕に、彼女は微笑みながら言う。  「そうですか。じゃぁ、朝食の際に入浴券と一緒にご用意しておきます。お代はチェックアウトの際に、宿泊代と一緒に頂きますので。クスクス・・・」  最後の「クスクス」の意味が判らなかったが、赤ら顔の僕は釣りの準備をするために、上機嫌で部屋に戻った。  昨日、下見した通り、あの日帰り温泉の辺りから川に入ろうと思っていた。この村一帯が月井内川の左岸沿いに広がっているので、相棒のゴルフを深い眠りから起こす程の移動距離ではない。今日もゆっくりと休んで、英気を養ってもらうことにしよう。  朝食を採り終えた僕は軽くポンチョを被り、煙るような雨の中をテクテクと歩いた。ヘヴィなレインウエアを着こむ程の本格的な降りではなかったからだ。背中には友人が作ったハンドメイドのランディングネットがぶら下がっているが、その美しい木工細工はポンチョの下に隠れ、今は裾から微かに網の部分が見え隠れするだけである。  右手に持つロッド(釣竿)には、既にリール(糸巻)もセットし終えてある。そのリールから延びるラインの終端にテーパード・リーダー(道糸と鉤の間の、徐々に細くなってゆく部位)が結束され、ガイドリングを通って伸びた後にロッドの先端で折り返し、手許に帰ってきている。そこに更に一ひろ程の6Xティペット(ハリス)を追加し、ロッドのグリップを握る右手が、そのティペットも握り込んでいる。  毛鉤はまだ結んでいない。この流域であればさほど標高も高くはないし、おそらくターゲットは山女魚(ヤマメ)になるだろう。純真無垢な岩魚と違って山女魚は妙に気難しい時が有り、お気に召さない毛鉤には全く反応してくれないことも珍しくは無い。従って僕は、川縁に立って現場を確認した上で、そのティペットの先に結ぶべき毛鉤を選択するつもりだった。  川に付いた僕は手ごろな岩を見つけると、その上にドッカと腰を据えた。目の前には月井内川の豊かな水が、右から左へと流れ続けている。禁煙してもう何年にもなるが、こんな時の一服が途轍もなく旨いことを思い出し、いまだに吸いたくなるのは身体がニコチンを欲していると言うよりも、むしろ記憶がそれを懐かしんでいるのだと思う。  うっすらと霞んで見えるのは、霧雨のような細かな雨のせいだ。川面から立ち昇る水蒸気も、それに一役買っているだろうか。こんな降りを『小糠雨(こぬかあめ)』と呼ぶのだと、朝食を給仕しながら美月が教えてくれた。そんな彼女の柔らかな笑顔を思い出すと、ポンチョのフードをポツポツと打つ鬱陶しい雨音も、顔を濡らす湿度100%の大気も気にならない。  この谷間の底に張り付くように停滞する朝靄を破って、時折、薄黄色の虫が舞い上ってゆくのが見えた。しかしそれは高い飛翔能力を持っているわけではないのか、フラフラと飛び立ったかと思うと、またフラフラと降下しながら水面へと舞い戻ってしまう。まるで靄の中に潜む異形の魔力に吸い寄せれ、必死で足掻いている風にも見えた。  (キンパクかな?)  僕はポンチョの下に着こんだベストのポケットからフライボックスを取り出すと、クリームイエローの毛鉤を一つつまみ上げた。色調はキンパク(カワゲラの一種の通称)に合せるとして、実際に飛んでいる虫のサイズから#16辺りのフックが好適と思われる。しかし、速い流れでの視認性を上げるために、まずは#14で様子を見よう。ロッドのグリップと共に握り込んでいたティペットの先端に、今選択した毛鉤をユニノットで結ぶ。そしてはみ出た余分な端部を切り落とすと、フロータント(浮力補助剤)を施して準備完了だ。僕は座っていた岩から降りると、魚を脅かさないようにゆっくりと入水し、目の前の流れから最もなポイントに目星を付けた。  実際に川に入ってみると、対岸の方が歩き易く、また釣り易そうに思えた。人の踏み跡でも通っているのだろうか? だが、簡単に対岸へ渡れる水量ではなさそうだし、とりあえず今日のところは、こちら側で様子を見ることにしよう。だって釣り易いということは、他の釣り人に荒らされている可能性も高いということだし、あと何日かはこの村に留まる予定なのだ。急ぐ必要は有るまい。  ジリジリとポイントに近付いた僕は、膝まで流れに立ちこんでキャスティングを開始する。ヒュンヒュンという余韻を残しながら朝の空気を切り裂くオレンジ色のテーパードライン(徐々に細くなってゆくフライフィッシング用の道糸)は、淀む朝靄を突き抜けて僕の毛鉤を流れへと運んだ。  無事、目的の位置に着水した毛鉤は、複雑な流れに弄ばれながら流れ始めた。その刹那、毛鉤の下の水中に魚影がかすめ、僕の心臓は早鐘を打った。何年この釣りを嗜んでいても、このドキドキ感は今も変わらない。一日の最初の一匹は特にそうだ。  ピチャッ・・・  しかし僕の予想に反し、そのポイントに潜んでいた山女魚は口を使うことをせず、水面を漂う毛鉤を尾鰭で跳ね上げることによって「こんな偽物には騙されないぞ」という決意を僕に投げ返した。
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