いのちのアンカー

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いのちのアンカー

市役所を出た私を、行き交う人々の多くが見つめた。 ほとんどが女性だ。高校生。私より年上っぽい女性。そして、私と同じ大学生に見える女性。 わかる、わかるわ、その気持ち。 あなたたちも、『これ』が欲しいんでしょう? 本当は、申請したいんでしょ? 視線をものともせず……本当は、全員の驚いた顔を目に焼き付けたかったけれど、私は歩いた。煉瓦が敷き詰められた歩道を颯爽と。すれ違う人は皆、私を見て振り返る。 知らず知らずのうちに、胸を反らして歩いているかもしれない。 胸元につけたシルバーの長方形のバッジ。 みんな、この証に注目しているんだわ! バッジにはこう書かれてある。 『わたしはいのちのアンカーです』 私、宮下(みやした)(めぐみ)は放棄した。子供を産むという行為を。史上最年少――法律で定められている最も若い年齢、18歳で申請したのだ。 これから先、私は一生妊娠しない、出産しない。 『わたしはいのちのアンカーです』 このバッジは、妊娠と出産を拒否する意思表示だ。 ――― 『バッジをつけると、勘違いして喜ぶ男性が出てくるんですよ。避妊しないで性行為ができるんだって。ですから、カードだけ携帯する女性もいます。宮下さんはバッジとカードでよろしいんですよね?』 『はい! あの! 一生妊娠できなくなる注射って、いつ打てますか』 『申請が終われば、この役所の別室で打てますよ。帰りに行いますか』 『もちろんやります!』 数十分前に行われた、職員と私の会話だ。 私は、アンカー申請書にサインを書いて判子を押そうとした。職員は私が持参した承諾書を見つめて、言った。 『……宮下さん。承諾書、本当に親御さんが書いたんですよね?』 『あ、当たり前じゃないですか! はい、判子を押しました!』 『……では、注射を打つので別室に向かってください』 いよいよだ。私は別室に入り椅子に座ると、白衣を着た別の職員の前で腕をまくった。 卵子消滅注射。 この注射を打てば、私の身体のなかにある卵子は全部なくなる……私は一生、妊娠も出産もできなくなる。 普通の注射と変わらない、一瞬の痛みだった。しかし、針が抜かれたあと、生理痛の痛みとは似ているようで少し違うような、下腹部の真ん中とその左右が縮むような変な感覚がした。しばらく横になってから、私は市役所を出た。 これで、これでよかったんだ。よかったんだよね……。 市役所の寝台に横になり、お腹の筋肉が収縮するのを感じているあいだ、父と母の顔が浮かんだ。 私がアンカーになったことを知らない、父と母の顔が。一週間前まで毎日のようにスマホで通話していた元カレの顔も声も浮かんでこなかったのに。 唾を飛ばすくらい豪快に笑う父と、手を叩き笑って頷く母。いつもリビングで見ていた、ふたりの顔が、頭のなかをぐるぐると回っていた。 ぐるぐる回っていたのは、そんな明るい様子だけではなくて、不意打ちで私に襲いかかってきたふたりの言葉も。ああ。あんな鋭い言葉を放ったとき。父と母は、どんな顔をしていたんだっけ。……わからなくて、当たり前か。 そんなとき私はいつも、下を向いていたから。 『お母さん、あんたを産んでなかったら、いまごろお父さんと別れていたよ』 『おまえ、何を言っているんだ。出るとこ出ようじゃないか。こっちは払える金があるから争ってもいいんだぞ』 彼氏と別れたと両親に告げたときの言葉も浮かんだ。 『恵。女は結婚しなくてもいいんだよ。結婚だけが人生じゃないのよ』 なぐさめだってわかってる。 じゃあ、なんで、自分の人生を否定するようなことを言うの? ――― 「お父さん、お母さん……私と家族になって、幸せだった? 後悔していない……?」 歩道を立ち止まりつぶやく私を、誰も見ていない。 人々は街頭テレビに映し出される臨時ニュースを観ている。 『本日、18歳の女性が『いのちのアンカー』の申請をしました。史上最年少の申請です』 淡々と話すアナウンサーに反して、街の人々はどよめいた。 「ばかだよなあ。10代で子供をもたないって決めるなんて」 「信じらんない。赤ちゃんがかわいくないのかな」 「話題作りじゃない?」 私はバッジを外して上着のポケットに入れると、足早に去った。 「ただいま」 リビングに向かうと、父と母は報道番組を観ていた。ふたりはお茶を飲んでいる。 「おかえり、恵。ご飯できてるから、チンして食べなさい」 「うん……」 番組では『いのちのアンカー徹底解説』というコーナーが放送されていた。 テレビでは、私も知っている、口紅の色は目立たないのに目元の化粧が濃い、どこかの大学の准教授の女性が早口でしゃべっている。 「これは問題です。命の尊さを知らない若い女性が現れたということです」 電子レンジのボタンを押す指に、力を込めた。 あんたに何がわかる。生まれた苦しみがわかるのか。 「尊さなんて、誰もわかんないよ」 勢いよく湯飲みを置くと、母は言った。 「だから、起こるんでしょ? 戦争も、殺人も……自殺も」 「きっと、その子。よっぽど何かあったんだろうなあ」 「棄ててしまったんだよ、結局。申請した子は」 「棄てたって何を?」 「恵?」 「棄てたって……何を棄てたって言うのさ!?」  私の背後では、ご飯がレンジのなかで温められている機械音がする。 しばらくして、温め終了を知らせる音が鳴る。 その音を待っていたかのように、母が口を開いた。 「可能性だよ」 「可能性……」 「将来、子供を持つかもしれない可能性だよ。そりゃあ、申請しなくたって、子供を産まない人生になるかもしれない。でも、自分が産めないとわかってる人生と、産むか産まないかわからない人生なら、全く違うよ。なんで、こんなことを選ぶ若者が現れたんだろうねぇ……」 私は崩れ落ちた。顔を両手で覆った。 「恵、どうしたの!?」 「恵!?」 父と母が駆け寄ってきた。 泣きじゃくる私の背中を、ふたりはさする。それは幼い私を……いつも駄々をこねていた私を……泣いてふたりを困らせていたばかりの私を、なだめるときと全く同じ仕草だった。 「ごめんなさい、ごめんなさい……!」 顔を上げなくては。父と母がどんな表情で私を見つめているか。 私は受け止めなくてはいけない。 ふたりとも、目に涙をにじませていた。私の背中をさすりながら、何度も頷いている。 ふたりが受け継いできた、いのちのリレーを。 ふたりから受け取った、いのちのバトンを。 私は放り投げたのだ。 テレビでは、まだ女性が語り続けている。 「申請した女性はわからなかったのでしょう。未来を描くということを。予測して選択を棄てていくのが未来ではありません。ただ歩き、歩いた足跡が過去になり、その先が未来を描くのです」 【終】
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