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   廃村赤牟村の再開発の話が持ち上がったのは三年前だった。  地形地質調査団が新潟県阿賀郡の山岳地帯に硫黄塩泉を発見したのである。 赤牟村からわずか二キロメートルの山中だった。  もともと、赤牟村には五頭連山を源流とするきれいな川と深い谷が織りなす景観があった。五頭連山の伏流水は地酒の原料になる。春には山ウドやゼンマイが芽吹き、秋にはナナカマドやカエデが鮮やかに色づく。  温泉と美しい風景。  灰のように死んだ地帯に再び火がくべられるべく、行政が動きだした。  僕の生まれは新潟市内。実家は阿賀野川沿いで川魚料理店を営んでいる。ほとんど観光客相手だが、地元の住人も昼飯を食いに来たりして、そこそこの商売になっていた。  両親と祖父母は僕が店を継ぐことを望んでいたが、田舎暮らしは退屈なうえに閉鎖的な感じがして性に合わなかった。卒業後は、中南米や東南アジアの衣料や民芸品などを扱う東京の輸入雑貨会社に就職した。配属先は、横浜馬車道にある商業施設ビルのアンテナショップだった。  三枝留美は同じビルの飲食店でアルバイトをしながらデザインアートを勉強中の大学生だった。その飲食店に昼飯を食いに行っているうちに、彼女と懇意になった。というか、彼女もエスニック独特の雑貨や衣類のデザインに興味を持っていたらしく、話題には事欠かなかった。僕たちはさらに親しくなって、デートを重ねるうちに体の関係を持つまでになったが、結婚を意識したのは僕の方だけで、留美はニューヨークへのあこがれの方が強かったようだ。一緒になりたいのなら、N.Yへ来てと、の賜る始末。  そんな折だった。  田舎の両親が、赤牟村に取り残された古民家を改築して、温泉浴場兼郷土料理店を立ち上げるという。県からの資金援助もあるらしい。  両親は僕にも手伝ってもらえないかと打診してきた。僕のところへ送られたきた手紙には、予想完成図や規模、施設のウリ文句などが細かく記されていた。  僕は今ひとり、山に囲まれた赤牟川のほとりにいる。川面が西陽をきらきらと反射していた。  山間部にひっそりと動きだした廃村のいたるところに、黄色い工事車両が放置されたように停止していた。車両の排気音はない。そのかわりに夏の名残のツクツクボウシだけが啼いている。  静かだった。  人の気配がない。    僕は、東側の山の稜線に昇り始めたもう一つの太陽(ベテルギウス)へ視線を向けた。  雲が鮮やかなピンクとグリーンに染まっていた。超新星爆発によるベテルギウスの放射線は700光年の旅を終えて、地球のオゾン層を破壊し、人類に災いをもたらしたのである。  それは急性皮膚剥離症候群と呼ばれた。  人体の筋肉層と皮膚層のあいだにある蛋白質層が破壊され、剥離していく病気だった。剥離層はしだいに膨れていき、皮膚は風船のようになって、破裂する。  その病は世界中に蔓延していた。              
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