503人が本棚に入れています
本棚に追加
* * *
「……はあ、なんか疲れた……」
ぽつり、小さく呟きながら私はアパートへ続くゆるい坂道を登っていく。
働いている最中、浅葱さんは暇を見付けては私に近付き、「実際、絵里子ちゃんって翔ちゃんのことどう思う?」とか、「どんな人が好きなの?」とか、とにかく恋愛関連の話がしたいようでしつこく迫られたのだった。その度に私は言葉を濁らせ、苦い笑みを浮かべるしかなくて。
(……悪い人じゃないんだけど、結構ぐいぐい来るタイプなんだよなあ、浅葱さん……)
彼女が苦手なわけではないが、かと言って深く関わりたいとも思えない。昔から人間関係を作るのは苦手だった。特に高校時代は田舎の進学校だったせいか、色々と人付き合いが大変で。
「……」
……あんまり思い出したくないなあ、と私は溜息混じりに空を仰いだ。赤く色付いた空と雲を目で追いかけ、寝床へと帰って行く数羽のカラスをぼんやりと眺める。
すると不意に、私の耳は「にゃー」という間の抜けた声を拾い上げた。
「……あ……」
「にゃー」
視線をそちらへと移せば、民家の塀の上から1匹の野良猫がひょっこりと顔を出す。猫は甘えたように声を発して、しなやかに塀から飛び降りると私の足元に擦り寄って来た。
「……え、な、何……?」
「にゃー」
尻尾を高く上げ、スリムな体をすりすりと足元に押し付けてくる猫。突然の出来事に私はあわあわと戸惑ってしまう。
お腹が空いているのかな、でも勝手に餌なんか上げたらご近所さんに怒られそうだなあ……、なんて考えながらも、私はとりあえずその場に座り込んで擦り寄って来るその背にそっと触れてみた。
「……そんなにすりすりされても、私、何にも餌なんか持ってないよ……?」
「にゃー」
「……にゃーって言われても……」
「にゃー。ゴロゴロ……」
喉元を指で撫でてやると、猫は気持ちよさそうにコロンと転がってゴロゴロと喉を鳴らす。もっと撫でろと言わんばかりのその姿に、警戒心無さすぎるんじゃないかなあ、と少し呆れてしまった。
「……ふふっ、可愛いね」
「ゴロゴロゴロ……」
「ふふふ……」
自然と口元が緩み、ついつい笑みがこぼれてしまう。なんだか今日は疲れたけれど、まあいいや。猫は可愛い。可愛いは正義。疲れなんか全部忘れちゃうな──なんて思っていた。
完全に油断しきっている私の傍で、カシャッ、と不吉な音が鳴り響くまでは。
「……、……」
「……あ、やべ」
バレた、と頬を引き攣らせてそこに立っていたのは、毎日晩ご飯の際に顔を合わせているお隣の彼。その手にはスマホが握られており、それはまっすぐと、なぜか私に向けられていて──ボッ、と私の顔には一気に熱が集中した。
「とっ……! と、ととと、盗撮しましたねッ!?」
私が急に大声を出したことで、猫は飛び上がってその場から離れる。しかしそれを気にしている余裕も無く、私はすぐさま立ち上がってスマホをポケットに隠した恭介さんに詰め寄った。
「……け、消してください!」
「は、はあ〜? 何のこと? 別に何も撮ってねーけど?」
「嘘! カシャッて聞こえましたよ!」
「知らねーって。一人で猫に話し掛けてるような女なんか、興味無いので撮ってませーん」
「ぜっったい撮ってた!」
彼のスマホを奪おうと手を伸ばせば、「あ! 体に触るのはルール違反だぞ!」と警告されて避けられてしまう。「自分だってこの前腕掴んだでしょ!」と言い返せば、「あれはカーディガンだったからセーフ」と屁理屈が返ってきた。
「だったら、これだってズボン越しだからセーフです!」
「だめ、人の物を勝手に取ったり見たりすんの禁止。これも“決まりごと”に追加な」
「ずるい! 大人げない!」
「ずるくて結構、ほら帰るぞ」
へらりと笑い、彼はそそくさと前を歩き始める。私は「恭介さんのばか!」と涙目になりつつ、猫背がちなその背中をぱたぱたと追いかけて行った。
最初のコメントを投稿しよう!