503人が本棚に入れています
本棚に追加
ふわふわ、いい匂いがする。
にんにくの焼ける香ばしい匂いとか、お魚の缶詰を開けた時みたいなお腹の空く匂いとか、パン屋さんの前を通った時の、あの匂いとか。
じゅわじゅわ、何かが沸騰しているような音も、聴こえる……ような……。
──えりこ。
低い声が、耳元で私の名前を囁いた気がした。だけど瞼が重くて、なんだかその名前が懐かしくて。夢うつつを彷徨う意識が、ただぼんやりと暗闇の中で揺蕩う。
──起きろよ。
聞こえる誰かの声が、ぼやぼやと頭の中に響いている。起きてるよ──そう言いたいけれど、私の唇からこぼれるのは穏やかな呼吸の音ばかりで。
──起きないと、食っちまうぞ。
耳元で聞こえた、そんな言葉。
食っちまうぞ、って、何を? 何を食べちゃうんだろう? 美味しそうな匂いがするし、私も食べたいな、お腹すいたなあ……。
そう考えていると、頬にさらりとくすぐったい感覚を感じた。
程なくして、ふに、と暖かい感触が、頬に押し当てられて。
けれどすぐに、さらさらとくすぐったかった何かが頬から離れる。通り過ぎた風が、知っている匂いを連れて行く。
甘い柔軟剤の匂いと、煙草の匂い。
あれ? これって、もしかして──。
「……きょ、すけ、さん……?」
「──あ、起きた」
名前を紡げば、返事はすぐに返された。私は暫しぼんやりと虚空を見つめて、目をこすりながらきょろりと視線を動かす。
明るい部屋。可愛いニュースキャスターを映しているテレビ。おいしそうな匂い。呆れ顔の恭介さん。
それらに一通り目を通して──ようやく、私は我に返った。
「──はっ!? 私寝てた!!」
「うん。おはよ」
呆れ顔のまま返事を返した彼は、32インチほどのテレビの前に座り込んで何やらリモコンを操作している。ぱちぱちと目を瞬く私だったが、目の前のローテーブルに彩り豊かな料理の品々が既に並んでいる事に気付いて慌ただしく体を起こした。
「わ、わわわ……! す、すみません、私いつのまにか寝ちゃってて……!」
「いーよ別に、疲れてたんだろ。よだれ垂らして寝てたぞ」
「嘘っ!?」
「嘘」
へら、と意地悪に彼が笑う。慌てて口元を確認した私がむっと膨れると、「そこの寝坊助さん、そこのコップに麦茶を入れてくださいませんか」と彼はわざとらしい敬語を口にした。また揶揄って……、と眉を顰める私だったが、寝てしまったという弱みがあるので大人しく麦茶をコップに注ぎ入れる。
そうこうしているうちにリモコンの操作は終わったのか、彼は私の隣に腰を下ろした。
「よし、準備できた」
「……? 何がです?」
「何って……映画?」
「映画!?」
最初のコメントを投稿しよう!