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じゅうじゅうと焼ける、香ばしい生姜の香りが鼻腔を通り抜ける。白いお皿には千切りのキャベツがこんもりと盛られ、くし切りにされた瑞々しいトマトが添えられていて、フライパンの上で踊るメインディッシュの到着を今か今かと待ちわびているようだった。
もちろん、それを待っているのは野菜だけではない。私だって同じぐらい待ちわびている。
彼の部屋へと入り、きっちり整理整頓された冷蔵庫から取り出されたタッパーの中身を見た瞬間に私は今夜のメニューを察した。刻み生姜と共に茶色い液体の中へと漬け込まれ、寝かせられていたであろう豚肉、そして玉ねぎ。
香りから察するに、間違いなく──生姜焼きだ。
「すぐ出来るし、テレビでも見て待ってて」
そう言ってさくさくとキッチンへ入って行った恭介さんは、買い物袋の中から次々と食材を取り出して素早く調理を始めてしまった。これはいつもの事である。彼は魔法のような熟れた手つきで次々と食材を切って、焼いて、あっという間に盛り付けてしまうのだ。
「ハナコ」
肉を焼く彼から不意に呼び掛けられ、振り向く。だからエリコです、って何度も言っているのに。「もうこれで覚えた」と彼は一度もその名を正しく呼んでくれた事は無い。
まあそれはそれとして、呼ばれた私はひとまず彼の元へと歩み寄った。
「何ですか?」
「唐揚げ。もう冷めてるだろ?」
「……あ……うーん、そうですね。レンジに入れます?」
「いや、大丈夫。パックから出してそこに置いといて。どうにかするから」
恭介さんはそう言いながら、頭上の棚の中に手を伸ばした。そこからニンニク一欠片を取り出し、まな板の上に置かれたそれを包丁の刃の側面で押し潰す。
その後、どこからとも無く取り出された小鍋にニンニクを入れ、黒酢をとぷとぷと中に注いで火にかけた。程なくして刻まれた鷹の爪も投入され、コトコトと弱火で煮込まれていく。
「ハナコ、ピーマン嫌いだったよな」
「えっ、あ、はい……」
「おっけ。じゃあピーマンはやめとこ」
そう言って彼はニンジンを手に取り、慣れた手付きでたんたんたん、と細切りにして行く。ニンジンを切り終わると次は玉ねぎに手を伸ばし、「うあー、目に染みるー!」とこぼしながらも、一玉を難無くスライスした。そしてまた、「ハナコ」と呼ばれる。
「その棚にさ、深めの四角いタッパーあるから、取って。白いヤツ」
「うぇ!? ……っあ、はい!」
涙の浮かんだ目を押さえる彼から唐突に指示を受け、戸惑いつつも私は言われた通りに棚の中から白いタッパーを探し出した。それを手に取り、すぐさま踵を返す。
「も、持ってきました……!」
「ん、サンキュ。そこ置いて」
ぱたぱたと駆け寄る私にそう言って、彼は小鍋に醤油と砂糖と酒を投入した。その小鍋を火にかけながら、切った野菜をタッパーに並べて行く。あれ、野菜は火にかけるわけじゃないんだ? なんて首を傾げる私を差し置いて、小鍋の中身はひと煮立ち。すると彼は火を止め、徐ろに振り返った。
「冷凍庫にさ、ラップに包んだ味噌が入ってんだよ。それ取ってテーブルに置いといて」
「……へ? み、みそ?」
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