きみへ

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きみへ

 火葬場の黒光りした屋根の真上に広がる真っ青な空に立ち昇って行く、細い白煙。それはまるで、俺にとって父と言う存在そのもののように感じた。掴み所などどこにもなく、少し風が吹けば直ぐに消えてしまう。まるで常に何かに泳がされ、怯えながらも、自分を形作る確固たる筋を曲げようとはしない。そして何時も、酷く自分勝手である。  そんな父が突然俺達の前から消えてしまったのは、三週間前の事だった。見付かったのはその翌々日。俺達の住む町から遠く離れた山中で、熊に襲われて変わり果てた姿となっていた。どうしてそんな所に行ったのかと、俺はただ首を捻るばかり。  昔から父は何処か抜けていた。ぼんやりしていると言うよりは、自分の世界から一歩も外に出ようとしない。誰の侵入も許さない、彼だけの世界に父は生きていた。そんな父との思い出と言えば、運動会の父兄競技の借り物競争でビリだった事。猫背の背中を更に丸めながら、ごめんと言って俯いた時の顔位。他は何故か、交わした言葉さえも思い出せない。  父は、本当に家族だったのだろうか────そんな疑惑が湧き上がってしまいそうな程、俺と父、そして父と母との関係性は希薄であった。 「この部屋の物は片っ端から全部これに入れなさい」  物置さながらの父の部屋で、遺物を片付けていた俺に、母は疲れた顔でゴミ袋を三枚手渡した。 「え、いいの。遺言書とかないのかな」 「ある訳ないでしょう。一体あの人が私たちに何を伝える必要があるのよ」  母は何やらぶつぶつと愚痴りながら、部屋を後にした。その背中を見送って、それもそうかと俺は一人納得していた。遺産なんて大層な物は何もないし、父がしこたま溜め込んでいるなんて事もないだろう。父の家族とは絶縁状態。一生社宅暮らしの身の上では、遺言書に書く程のことは何も無い。  俺の家はごくごく一般的なありふれた家庭。父は三十七歳。広告代理店で働く、どこにでもいるサラリーマンだった。母も同い年で、二人は小学校からの同級生。母は自分の小遣い稼ぎにパートに出ている程度で、これもどこにでもいる主婦だ。学生結婚だったと言う過去は聞いた事があるけれど、そんな二人の間に俺の覚えている限り会話は一切なかった。俺の見ていない所で言い争うなんて事もしない。まるでお互い相手が見えていないかのように振舞っていた。  そんな不穏な空気を察して、一度聞いた事がある。お母さんはお父さんが見えないの、と。母は幼い俺に、心の中で会話が出来るのよと、苦し紛れの嘘を吐いた。以来、俺は二人について詮索しようとは思わなくなった。母の表情は、それ程に何か深い物を隠していたから。  積み上げられた書類の山は、殆どが仕事関係の物。どれもこれも十七歳の俺の興味を引く物ではない。迷う事なくゴミ袋に突っ込んでいると、ふとぐしゃぐしゃに丸められた紙が目に止まった。まるでスランプの小説家が次々に捨てて行く原稿用紙のように、気を付けて見れば其処彼処にそのゴミ屑は散らばっていた。ほんの興味本位で開いてみると、横書きの便箋にはたった一言。お元気ですか────それだけが書いてあった。誰かに手紙でも書こうとしていたのだろうか。だが父に友人がいたなんて驚きだ。父は真っ直ぐに会社に行って、真っ直ぐに帰って来るような人だった。休みの日はずっとこの部屋に引きこもり、顔を見るのは食事の時位。誰かと電話している姿すらも見た事はないし、年賀状も仕事関係以外で来た事がない。  友人もいない。趣味もない。感情すら見受けられない。この鬱々とした部屋に閉じ籠っているだけの人生。父は、何処にいても孤独な人間なのだと俺はずっと思っていた。そんな父の息子である事が、たまらなく嫌だった事もあった。だが何時しか、俺も母と同じように何もかもを受け入れ、諦めてしまった。父はこう言う人間で、俺達とは少し違う世界に住んでいる。たまたま息子として産まれてしまったけれど、結局は他人なのだからお互い干渉する必要は無い。父は、自分への感情が死んで行く息子にすら、何の興味も無かったように思う。  そんな父の書いた手紙がどうしても気になり、俺は他のゴミ屑も開いて見た。だが全て同じ言葉で終わっていた。父は一体、誰に何を伝えたかったのだろう。今迄存在すら認識する事の薄かった父への好奇心は、何故かその時に最高潮を迎えた。  乱雑に積まれた本の山の間。引き出しの奥深く。カーペットの下。ありとあらゆる所をひっくり返し、俺は唯ひたすらに父の欠片を探し回った。  気付けば夏の太陽も赤々と燃えており、部屋の中は発見された時父が着ていたワイシャツと同じ、鮮血の色に染め上げられていた。  そして使い古した鞄の中、遂に俺は父を見付けた。小さな無地の巾着袋一杯に詰め込まれた、膨大な手紙。貰った物か、送らなかった物なのか、早鐘を打つ心音は、それを早く知りたがっている。丁寧に封じられた紐を、震える指でゆっくりと解いて行く高揚感。未だ嘗て味わった事のない感覚だ。 「ねえ夕飯だけど、素麺で良いかしら」  突然、背後から聞き慣れた母の声が響き、俺は咄嗟に開きかけた巾着袋を鞄に押し込めた。恐る恐る振り返るも、母は俺がそれを見付けた事には気付いていないようだ。いつも通りの少し疲れた顔がそこにはあった。 「あ、ああ、良いよ」  安堵と焦りが混ざり合い、やけに上ずった声が出てしまった。母は一瞬訝しげに眉を顰めたが、分かったと言って直ぐに出て行った。  大きく息を吐き出し、俺は急いで巾着袋を自分の部屋に投げ入れた。幸い父の部屋と俺の部屋は向かい合っており、その行動はキッチンからは見えない。その後は慎重に部屋の物をゴミにして行き、半分も過ぎた辺りで夕食となった。  食卓に、もう父はいない。父が失踪してから三週間。慣れたはずなのに、何だか今日は不思議な違和感を感じる。いてもいなくても変わらないと思っていた、父と言う存在。だがこの世に存在しなくなったと思うと、何処か寂しく思うのは人間の性なのだろうか。俺も父に負けず劣らず、随分と自分勝手だ。  今更そんな父の事を知って何が変わる訳でもない。ただ何と無く、知りたいと言う欲求だけが俺の中では膨れ上がる。 「母さん、あの人友達とかいたの」 「学生の頃のはなし」  問いの問いに小さく頷くと、母は遠い日に思いを馳せるように視線を投げた。 「そりゃ人並みにはいたわよ」 「親友とかは。今でも、連絡を取るような」  普段まるで父に興味も無かった俺が、突然こんな事を聞いたのだ。母は当然のように疑惑に満ち満ちた瞳を向けた。 「何が言いたいの」 「いや、葬式……会社関係だけだったじゃん」  父の細やかな葬式には、それ以外誰も来なかった。親戚付き合いがまるで無い事は知っていたが、よくよく考えてみれば友人が一人もいないなんて可笑しな話しだ。それを察したのか、鋭く俺を射抜いていた瞳は、ザルに盛られた素麺へと戻った。 「卒業してからは皆疎遠よ。ほらあの人、ああ言う性格だから」  母はそれ以上、語ってはくれなかった。  残りの片付けは明日する事にして、俺は夕飯を食べ終えた後、早々と自室に篭った。勿論、巾着袋の中身を見る為に。軽く二十通はある手紙の中から、封筒に入っていない物を先ず選ぶ。だがどれもこれも、ぐしゃぐしゃに丸められたゴミ屑と同じ、たった一言しか書いてはいなかった。残りは三通。全て、封筒に入っている物だ。宛名は無い。封もされていない事から、父の書いた手紙だと推測出来る。そのうちの一枚を、俺は恐る恐る開いた。  君へ────。お元気ですか。先ず、約束を破ってしまってすみません。こうして僕が君に手紙を書いた事を、彼女は勿論知りませんので安心して下さい。先月、無事に男の子が産まれました。こんな事を伝えたら、君は怒るだろうか。それとも、嘆くだろうか。僕はそればかりを気にしています。けれど伝えなくてはいけないと思い、こうして君に手紙を書いてしまいました。僕は今でも、あの日の事を後悔しています。どうして、どうして、どうして────その言葉を繰り返して生きています。あんなにも毎日が君に満ちていたのに、今君に会いたいと願うのは、それだけで罪のように感じられる。どうして、こんな事になってしまったのだろう。あの日、あの場所に行かなければ、僕達は三人あの時のままだったのだろうか。彼女は今、笑っていただろうか。そして僕は、色褪せる事の無いたった一夜の夢を、未だに追い続けてはいなかっただろう。僕達が手にした物は、何だったと思いますか。僕は今でも、それが分かりません。責任、使命、贖罪、戯れ。沢山の言葉が当てはまるように思うのに、そのどれも適切では無いように思う。ただ一つ言える事は、あの日の君以上に美しい物が、この世には存在しないと言う事だ。  そこで終わっていた手紙は、やはり出せなかった物のようだ。先月子供が産まれたと言う事は、もう十七年前の物。大凡初めての息子に浮かれて書いた手紙とはとても思えない。これではまるで恋文だ。この君とは一体、誰なのだろう。彼女と言うのは母の事だろうから、どうやら母と三人で仲が良かったようだけど、父は随分とこの手紙の相手に入れ込んでいるようだ。  あの父が、浮気────そんな甲斐性があるとは思えないのだけど。だがそもそも十七年も前の出せなかった手紙をこうして持っている以上、浮気と言うよりは本気であったのではないだろうか。他人に愛情や、興味感心を持っていた事に驚きだ。母の事も、俺の事すらも視界に入れなかったあの父が。とても信じられない。一体父の心を掴んで離さなかった人物は何者なのだろう。急かされるよに、俺は次の手紙を手に取った。  君へ────。お元気ですか。五年前、無事に彼女が君の子供を産んだ事はもうお話ししたと思います。とても元気に育っていますよ。でも、僕を見て、パパと言います。それがとても辛いです。実を言うと、まるで幼い日の君を見ているようで堪らないのです。堪らないどころか、似過ぎていて、何だか変な心地がします。こんなにも君に似ているのに、そこにいるのは君では無い。そこにいる君にとって僕はパパで、彼女の心をズタズタに引き裂いた君の鋭い棘など、そこにいる君は欠片も持ってはいない。しかしその一方で、まるで君の全てを手に入れた気がしました。君にもこのような無邪気な時があった筈だから。年を重ねる毎に、そこにいる君は、君を形造っていたあの毒の棘を身体中から生やす筈だ。だから、僕は遂に彼女と結婚する決心しました。これから僕は、君の成長を一番近くで見る事が出来る。それがとても嬉しいです。今度一度見てやって下さい。君もきっとびっくりするはずです。勿論、臆病な彼女には絶対に内緒で。  正気の沙汰とは思えないその手紙の内容は、全く予想の遥かうえを行っていた。だが心の何処かで腑に落ちた。俺は父の本当の息子ではない。あの人にとって俺は無償の愛情を捧げる相手ではなかったのだ。だから他の家庭で言う普通の事が、彼には出来なかった。褒めない。叱らない。目を見ない。存在すら、認識しない。いや、認識はしていたのかもしれない。父は俺を、手紙の君として見ていたのだから。  俺をその人の代わりとして見ていた。そのゾッとするような真実に、くらくらと揺れる頭を抱え、俺はリビングに足を運んだ。居間のソファで洗濯物を畳む母の横顔は、何時もとなんら変わりない。傍に歩み寄った俺を、不思議そうな顔が見上げる。 「母さん、俺あの人の子供じゃないの」  一瞬の乱れもなく、母は俺の言葉を笑い飛ばした。 「そんな訳ないじゃない。どうしたの」  俺は笑い返す気にはなれず、握り締めていた手紙を差し出した。目を丸くしながらそれに目を通し、母はこの世の終わりのような顔をして溜息を吐き出した。 「こんな物、書いていたなんて」  最早逃げられない事を悟った母の表情は、酷く陰鬱な物だ。 「あんたの本当の父親はね、亡くなったのよ。あんたが産まれる前に」  驚きに言葉を失くす俺をおいて、母は言葉を繋いだ。 「あの人と私と彼は、幼馴染だった。彼と私は付き合っていて、あの人とはよく三人で遊んでたの。それだけよ」  そして、父は彼の事が好きだったと言う訳か。 「隠していて悪かったと思ってる。でも当時の事はもう、思い出したく無いの」  母はそう言って、頭を抱えてしまった。父とその人の関係を、母は知っていたのだろうか。父が、彼を想っていた事。何故結婚したのかまで。だが思い出したくないと言う言葉は、何もかもを知りながら目を背け続けた故に生まれた言葉のような気がした。  一人自室に戻っても、俺は大量の手紙を前に何一つ動かす事が出来なかった。指先一つ、枷を施されたかのように重い。それでも思考は追い求めた。もういない父の残していった、真実を。父は何故あの山に行ったのだろうか。それを知る為に、最期の手紙の封を切った。  君へ────。お元気ですか。こちらは随分と暑くなって来ました。君が一番、好きな季節です。照り付ける鬱陶しい太陽の下、弾む汗を輝きに変えて、誰よりも煌めく君を思い出します。君は覚えているだろうか。あの山中で、人目を気にせず無我夢中で唇を重ねた日の事。君の素肌を味わい、君の熱を感じた。纏わり付く湿気を帯びた重い暑さ。滴る汗と欲の混ざり合った匂い。背徳の毒沼に呑まれ、僕達は性の尽きる迄愛し合った。僕は未だ、あれ程に人を愛した事は無い。僕の時は止まったまま、針はぴくりとも動かない。けれど、最近軋んだ音を立て、何かが動き始める予感がするのです。息子が、十七歳になりました。あの過ちが起きてしまった時まであと一年。大きくなるにつれて、やはりどんどんと君に似てきています。冷え切った双眸。真っ直ぐな睫毛。白い肌に茶褐色の髪。考える時に首元に手をやる癖までもそっくりです。僕は怖い。やはり、間違ったのだろうかと考える事が増えた。君はもういない。それを受け入れられなかったが故に、繰り返すのだろうか。だから一度、君に会いに行こうと思います。僕の止まった時を、取り戻す為に。君をこの手に、取り戻す為に────。 了
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