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18
「す……、スミくん」
「悪かった」
「俺、いま……ヒートで……。離してほしい……」
かすれた声で言うと、スミくんは俺を開放した。だけど、手ひらは肩に触れたまま。撫でてくれればいいのに……という妄想を、俺はなんとか振り払った。
「ヒート? ……2ヶ月も先だろ」
「うん、そうだったけど……。いろいろあって、今朝から」
「抑制剤は?」
「飲んでる」
「……わかった、とにかく部屋まで送る」
「うん、でも……。触らないで」
肩に置かれた手が、ようやく離れた。ほっとしたのもつかの間、胸がじんじんと痛みだす。触ってもらえて嬉しいのに、なんでこんなこと言わないとならないんだろう。
「嫌いになったんじゃないよ、スミくん」
「ああ、わかってる」
そう言いながら、スミくんは立ち上がる。それに続いた。
「305、だったよな」
「うん……」
「階段のほうがいいか?」
「うん」
俺は唐突に、昨夜スミくんにぶつけたひどい言葉の数々を思い出して、自責の念にかられた。
あんなこと、言う必要なかった。夜中起こしてまで。本当に子供だ、俺は……。
平日だし、仕事を早退して新幹線に乗ったんだろうか。
「スミくん、ごめんね……」
「何が」
「困らせて」
「困ってない」
泣くつもりなんて無いのに、次から次へと涙が溢れた。ごまかすのは無理だった。
「俺っ……、もうスミくんに甘えるの、やめるから……」
「……それはゆいちの自由だけど……、無理はするなよ。何歳になったって、俺には甘えていい」
スミくんがそんなことを言うから、余計に俺の目頭は熱くなる。ようやく階段にさしかかった。
「……ヒートが早まったのは、どうしてなんだ?」
「うん……、媚薬……」
「媚薬……?」
懐かしい顔を見て、完全に気が抜けていた。俺はとっさに別のセリフを重ねる。
「ち、違う。αとセックスしたからかも。相性のいい相手だと、早まるって聴いたことある」
それっぽいでたらめを言う。
凍りついたようなスミくんの顔を見て、言ってはいけないことだったかと焦った。いや、だけど……。俺とスミくんは付き合ってないし、俺はフラれてるわけだし……なによりここへ送り出したのは、スミくんなんだから、悪いことしてるわけじゃ……。
「セックスしたって言っても、まだ割り切った関係で……。実験的にっていうか……番とかも関係なくて」
「……そうか。その相手と、これから付き合うんだよな?」
「彼は失恋したばっかりなんだ。だから、急には気持ちを切り替えられないから、様子見してる」
「そんな状態で、ゆいちに手を出したのか」
「手を出したとかじゃなく、友達としてだよ。俺は恋人役をやってて……だからセックスも」
「恋人役?」
「うん。瀬川が落ち込んでるから……なにかできないと思って」
「……その人のことが好きなのか。気が合わないって言ってただろ」
「そうなんだけど……、味方してやりたいんだ」
スミくんは2階手前の踊り場で、立ち止まってしまった。険しい顔をして、俺に向き直った。
「友達の力になりたいっていうのは、わかる。だけど身体の関係を持つのは、やりすぎた。そんなことしなくたって、励ます方法はいくらでもある」
「……あ……、あいつはαだから、性的なことって効果が出やすいし。俺たち、相性がいいってことで同室になってるし……」
「……だからって、ゆいちが、そこまでしなくてもいいだろう」
「うん……。もちろん、瀬川が立ち直ったらこんなことしないよ」
「そのときはちゃんと付き合うんだよな、彼と」
俺は口ごもった。
「友達としては、今後も付き合うと思う……」
スミくんは俺をしばらく眺め、また階段を登りだした。動作の鈍い俺を気遣うように、なんども歩調を緩めるのがわかった。涙は収まってきたが、スミくんがそばにいるせいか、そもそもヒートのせいなのか、動揺が続く。何か少しでも感情を揺さぶられたらまた泣いてしまいそうだった。
スミくんの前ならともかく……、瀬川に今の自分を見せるのは、ものすごく抵抗がある。先日、怒って泣いた時とはわけが違う。
スミくんは言う。
「フロントの人に、予備の部屋があるって聞いた。関係者なら一泊できるみたいだから、そうする」
「えっ、仕事は?」
「明日は有給取ってきた」
「そうなんだ……」
そこまでさせてしまったことに、多少の居心地の悪さと、強い気持ちを感じた。
3階についたころには、なんとなくスミくんが……静かに怒っているのだと感じ取れていた。ずいぶん迷ったが、俺は305の前を素通りする。
「ゆいち? 305だろ」
スミくんは不思議そうに、通り過ぎたドアを見やった。
「うん……。でもこんな顔で、同室のやつに会いたくないんだ。スミくんがここに泊まるなら、時間もあると思うし……先に、庭に行ってもいい?」
「庭?」
「うん、ここ庭がきれいなんだよ。いくつかあるんだけど……」
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