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22
俺は無心で踊り場へ戻り、階段の続きをあがっていった。黙々と三階まで。
こんなことなら……、スミくんと一緒に帰ればよかったんだ。早すぎた、とスミくんは言ってた。確かに……、俺は田舎者で世間知らず。まさかこんな目にあうなんて、かけらも想像しなかった。
でも、思ったほどショックは受けなかった。そこだけは救いだった。初日、瀬川の信用が地の底へ沈んでいるからか……。そういう部分を含んだ人間だと、予めわかっていたからかもしれない。
それでも腹は立つ。瀬川を信用してしまった自分に。
「小竹くん!」
俺が自室に入ろうかというころ、追いかけてきた瀬川を廊下の先に見つけ、急いで室内に入った。そして内鍵をかけ、今まで一度も使わなかったU字ロックを倒した。
「小竹くん……」
ドアを隔てたむこうから、瀬川の声がする。その声は焦っている。
「ごめん、小竹くん」
「説明したいならしてもいいけど、俺が許すとは限らないからな」
「そうだよね、ごめん」
「こういうのは演技?」
「違う」
それを確かめる術を、俺は持っていない。
「美佐央ちゃんとの話、どこから聴いてた……?」
「俺を落とせるかどうか、賭け事にしてたのはわかった」
「かっ……、賭け事と言うか……」
「俺はここを出てく。瀬川だって出ろよ。おまえだけが楽しんでるのは許せない。美佐央といたくて居座るつもりなら、前に言ったとおり、おまえんちの会社に嫌がらせするからな。それをやめろってんなら、別の手段も考える。法的な」
「小竹くん、確かに賭け事にしたけど、もうやめるつもりでいた」
「そんなの信用できるか」
「すぐに信用してくれとは言わないよ。……とにかく、あけてくれないかな」
腹が立ったが、荷物をまとめたあと俺は、ドアをあけて外へ出ないとならない。
ベランダから飛び降りるのは無理じゃないが、噴水の周りはところどころ、レンガブロックで舗装してある。平らなコンクリの舗装路ならまだしも、溝や凸凹がある。そこへ着地して万一足を痛めたら、悔やんでも悔みきれない。身体は本調子じゃないから精度に欠ける。
俺は深呼吸したあと、ミニ冷蔵庫から取り出した水を一気飲みして、ドアに向かい鍵をあけた。すぐに離れる。ベッド横へ引き返しスーツケースを開いた頃ようやく、入るよと声がして、躊躇いがちにドアノブが動いた。瀬川が入ってきた。動きはゆっくりだった。
俺は目の端でそれを確認しながら顔は上げず、衣服を丸めて袋に詰め、スーツケース内の然るべき場所に配置する。瀬川は自分のベッド付近で立ち止まる。
どんな顔をしていいかわからない、というのはこういう時の事を言うんだな、と思った。俺は怒っていたけど、傷ついたと思われたくないから、平気な顔をしていたかった。
そして瀬川が……いよいよどんな人物なのかわからなくなって、対応に困った。
どれが本物なんだろう。
初日に美佐央とセックスしていた姿。そのあと、気まずさのなか何事もなかったみたいに対応した姿。美佐央とのラブストーリーを語りながら泣いていた姿……。
他人の名前を呼ばれながらのセックスは嫌だと、嫌悪感を顕にした……。瀬川に責任があったとはいえ、体調不良を甲斐甲斐しく世話してくれた。
美佐央のことを想って、抜け殻みたいになった姿……。
どれも同情を引くために配置したものに思える。美佐央主催のパーティーに行って、自虐みたいに美佐央と魚谷の仲を眺めてた。あれだってもしかして……。
疑い出すとキリがない。
初日のセックスだって、俺の怒らせるためにあんなシーンを見せたのかもしれない、杜撰すぎるよな、いくらなんでも……。オナ禁期間だって長すぎる。
瀬川は自分でも言ってたけど、たぶん……一時の感情に流されるタイプじゃない。口だけの強がりじゃなく、本当にそうなんだろう。もっと冷静に自己管理できるはずだ。発言から、たまにそういう知性を感じた。
「小竹くん。……反省したんだ。君に対してはすごく罪悪感がある。自分が悪い事してるって、はっきり感じるようになった。だから、やめようと……」
「今日じゃなくても。昨日でも、おとといでもそのまえでも、やめられたんじゃないのか」
「……気持ちを整理するのに時間がかかったんだ。でもようやく今日、決心がついた」
俺は手を止め瀬川を睨んだ。良かった、瀬川は泣いてない……。その確認をした自分に驚いて、また視線を落とした。
「君の恋人役をやって、楽しかったんだ。好きって言ったり……言われたりするのが心地よくて」
俺だって、同じように思ってた。
だから、番になってやってもいい、なんて……。瀬川を試すようにそう言った、数時間前の得意げな自分が思い出され、急に目頭が熱くなった。
立ち上がって机上を片付けはじめる。
結局つけることのなかった日記帳。つけなくてよかった。自分の愚かさを痛感するノートが出来上がるところだった。
「瀬川、おまえ……どっかおかしいよ。俺が最初に言ったとおり、イカレちんこ野郎だったってことだ。美佐央とセックスできればそれでいいんだろ。可哀想だよな、美佐央は魚谷と番になるって言うし、結局おまえには何も残らないのに」
初日の夜。瀬川と俺がしたっていう行為。あれも、俺に記憶のないところがあやしい。スミくんの名を出されて信じてしまったけど、俺が単に寝言で呟いた可能性もあった。
媚薬入の石鹸……。今思い返せば、使ったってわりには新品みたいだった。だめだ、もう何もかもが思わせぶりで怪しく思えてくる。
魚谷は……。あれは本当の親切だったのか。考えれば考える程わからなくなって、次第に頭がぼんやりしてくる。どこからやり直せば……。
どこからやり直したって、無駄だ。
だって瀬川は美佐央が好きなんだから。美佐央の気を引くためなら、えげつないことだってやるし、平気で人を騙す。美佐央が悪いのか? そうじゃないよな。美佐央は瀬川を断ってたんだから、しつこくつきまとう瀬川にまいって、無理難題をふっかけたんだろうか。諦めるようにって。
さっきの会話は本物だろうし……。
いや、そもそも瀬川がスマホを部屋に忘れていったのも、サイレントにしていなかったのも……。
めまいが起こりそうな予感がして、俺は強く目を閉じた。それでもなんだか……、足元にぽっかり穴があいて、そこに俺が吸い込まれていくような気がして……。
「小竹くん」
「やっぱり! とにかく。瀬川とはしばらく話したくない。俺はここを出るし、おまえも出ろ。それ以外はありえない」
瀬川はしばらく黙って立っていたが、またあとで話そう、そう言って部屋を出ていった。
俺はそのまま脱力し、床へ座り込んだ。ベッドの縁に顔を伏せた。
スミくんと話したい。携帯番号は覚えているから……フロントから電話してみよう。
現実的に考えたら、すぐにここを出るのは無理だ。準備や手続き……。スマホを失っているので、それも痛手だ。ここへの手続きはほとんどオンラインだった。
周遊バスは、夜は17時台が最終。もう終わってる。
歩いて駅まで下るなら1時間、普通ならもっと早いけどスーツケースがある。途中路面がひび割れていたのも見た。どんなに頑張っても今日中には地元へたどり着くのは難しい。どこかの駅で一泊することになる。普段ならそれでもまあいいかと思うけど……、体調の事を考えると、さすがに野宿はしたくない。
なら今日はしっかり寝て、朝飯を食べて、バスに乗ったほうがいい。
瀬川……。
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