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 いじめだと言う俺に反発してきた瀬川を見て、情けなく思った。ただやっぱり、昨日振られたという男にこれ以上なにか言う気にもなれなかった。同情した。  いまだって彼の周りにはたくさんの人がいる。少し視野を広げれば、まともな恋愛関係を築ける相手は、いるだろうに……。  彼は、泣き止んだかと思うと急にじっと俺を見た。 「よかったら、俺と美佐央ちゃんの話……聴いてくれないかな」  聞きたくない、そう言ったらどうなるだろう?   俺は体調が悪い、しかも瀬川のせいでそうなっている。それをわかったうえで、なおも哀れな俺アピールをできるような男だ。これが何日も続いたらたまらないし、そんな状態で世話されるもの避けたい。退去者がでるような騒ぎになったのなら、きっと説明すれば部屋は変えてもらえるだろう。しかしまあ、体裁が悪いだろうと思う。こういう閉鎖的空間じゃ噂なんてあっというまに広まる。  俺自身は人にどう思われたって構わないが、色々と義理もある。  できるだけ早く瀬川を落ち着かせようと思うなら、理解者でいたほうがいい。あんまり気は進まないけど……。  美佐央ラブストーリーは、前日譚として小学校の遠足の話から始まった。  中学に入って恋をして、そのあとに彼がαだと知った。そのときには、もう引き返せないところまで気持ちが来ていた。  告白して振られ、お友達でいましょうと言われて……。高校に上がって、互いに持て余した性欲のおかげで、うっかり関係を持った。  はじめての時は、αの匂いが原因で、気まずく終わったらしい。α同士で結ばれることを想定し執念深く調べていた瀬川。数年後、α同士のセックス用の石鹸が販売された。  なんとか手に入れ、それを使うことを条件に彼は体を合わせてくれるようになった。けれどそのうち気づいた。美佐央は遊びで、自分は結局片想いのままだと……。  語り口が、まるで小説か映画みたいだった。しゃべるのが上手いんだなと思った。  壮大な話を切々と聞かされ、終わったかなというころに、俺は腹が減ったと主張した。  現在午後の2時、起きてから水しか飲んでいない。  すると瀬川はふいに我に返ったようで、頬を拭ったあと、悪い、と言った。俺から食べ物の好みを聞き出してメモし、待っててと言い残し外へ出ていった。   俺はようやく力を抜き、目を閉じ息をはく。ぐったりしていた。  とんでもないやつと同室になってしまった。昨日の印象とは違って、いけ好かないって程ではなさそうだけど、気が合うかと言われたら微妙だ。  手を伸ばし、机上にあったスマホを取る。明日予約していたパラグライダーは、どうあがいても無理だろう。楽しみにしていたのにな……。体調不良で動けないとのメールを送った。  あさってはカヌーと決めていた。カヌーはそこまで激しい動きじゃないし、体調が8割戻れば行くことしよう。  ここにいるあいだ、寝る前に必ず日記をつけようと思っていたのに、昨夜は無理だった。出鼻からくじかれた。  瀬川は20分くらいして戻ってきた。ホテルのロビーには売店があって、日用品やお土産まで売っている。そこで色々買ってきたようだ。  俺は起き上がって、ベッドの端でレトルトのおかゆを食べた。鮭と卵の雑炊。  瀬川が匙で食べさせようとしてきたので、流石にそれは断った。腰掛ける体力があるのに、なぜ匙も使えないと思うのか。  こういう雑炊は歯ごたえもないし味も薄いし、食べてる気がしない……と思っていたが、そんなに悪くはなかった。やっぱり体調の影響かもしれない。  夕飯からは、調理場に頼んで胃に優しいメニューを作ってもらえるのだという。  俺が今一番食べたいのはからあげだ。だが、脳がそう望んでも体が受け付けるかはわからない。意識を失うほどのことがあったんだから、様子見しつつ、体を慣らすほうが懸命だ。  食事が終わると俺はトイレに立つ。水回りには、午前のうちに特別な清掃がはいったから、匂いのことは安心して。そう言われた。  こんな目にあったけど、もう一度だけあの匂いを嗅いでみたかった……と残念に思う自分がいた。  夕食のすこし前、瀬川が部屋に折りたたみのテーブルを運んできた。ベッド脇に設置する。木目の天板。瀬川はまた出ていき、今度は小鉢がいくつかのっているトレイを運んできた。人に頼まないところをみると、世話させて欲しい、と言ったのは本気なんだなと思った。  夕立のあと、陽が落ちるとだいぶ気温が下がった。  俺はベランダに出たいと言った。瀬川はにこやかに頷いて、準備するから待って、と。俺はベッドの上から、ベランダと室内を行き来する瀬川の様子を眺めた。  瀬川はウッドデッキの小さな外灯をつけ、テーブルに置いた2つのグラスに氷を入れる。紙パックからぶどうジュースを注いだ。それから炭酸水。部屋には小さな冷蔵庫が備え付けられているから、そこに用意してあったんだろう。  テーブルの中央にポッと小さな火が灯る。キャンドルのようだった。  俺がベランダに出ていくと、わざわざ椅子を引かれて、どうぞ、と言われた。居心地の悪さを感じながら腰掛けた。  ちょっと外の空気を吸いたいなっていう、その程度の発言だったんだけどな……。雨上がりのせいか、緑が濃く香る。  チーズをやいたような小さなスナックが、さらに開けてあった。サクサクして美味しい。間食には俺の好きなものを用意してくれたんだなと思う。  「小竹くんは、ご実家が和菓子屋なんだって?」 「うん、そんなに大きい店じゃなくて、町の和菓子屋って感じ。2店舗だけ」  うちは明治創業……地域密着型の小さい店だ。中山道の宿場町が近く、周りにはもっと歴史的な店や文化財が多々あるので、”明治”はあまり売りにならない。  しかし、規模も小さくパッとしなくても信用だけはあって、この交流会に参加できたのはそのツテがあったおかげだ。ここは推薦状がないと申し込みすらできない。 「どういうお菓子を売ってるの?」 「栗きんとん、とか」 「へえ」 「名産なんだ。もちろん他にもあるけど」 「素敵だね。正月にも食べる縁起物だろ。俺も好きだよ」  瀬川は微笑み、俺はなんだか急に恥ずかしくなった。 「それとは違う。読みは同じだけど、漢字が違うんだ。もっと茶巾絞りみたいなやつで」  俺はスマホで画像を検索してみせようとしたが、手元にない。机に置いてきていた。すると、意図を察したらしい彼がスマホを渡してくる。こんな個人情報が詰まったものを、出会って1日の俺に触らせて良いのか?と躊躇う。  瀬川はさもあたりまえのような顔をしていたので、俺は続けた。検索して、該当のものを画面に表示して返した。 「なるほど。別のものがあるって知らなかったな。今度取り寄せて食べてみる」 「……うちも通販やってるから、送るよ。ここから帰ったら」 「いやいや、それなら探して自分で通販するよ」 「料金は請求する」  瀬川はまた笑う。 「そんなふうに言って、結局うやむやにして払わせてくれない人が多いよ。目の前に持ってこられたら断れないけど、それ以外では気をつけるようにしてるんだ。正直な感想を持てなくなるから」 「ふーん……」  ”美佐央”に関しての瀬川にはだいぶ引いたが、雑談なら普通にできた。  むしろいいやつそうで、俺は困惑していた。恋愛だけがむちゃくちゃなのか。
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