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 幸い、その日は性衝動が起こらなかった。  昼まで寝てたからあまり眠くもなかった。ちょっとでもムラっとしたら、瀬川が寝静まった頃に処理しようと思っていたが……。  俺は昔から風邪の治りも早く、病気もあまりしなかった。精神・肉体において他所からの影響を受けやすいΩにしては、ずいぶん健康だと、医者からもよく褒められていた。そういうのが関係しているのかもしれない。  媚薬を使ってから2日め。  昨日よりは断然身体が軽かった。それでも、消化にいい食事で我慢した。明日のカヌーにはなんとしてでも行きたい。  瀬川は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。ほとんど部屋にいて、俺の話し相手になったり、本を読んだり、持ち込んだパソコンをいじったりしていた。  不思議なことに、その夜も性衝動は起きなかった。  俺は、3日に一ぺんぐらい自慰をする習慣があった。ここへくる前日に抜いたので、そこからだともう3日が過ぎてしまっている。まあ、環境も食事も変わったし、身体に負荷もかかって……、そういうこともあるかと思う。  だが、媚薬の副作用で苦しんでいるのに、少しもムラムラしないなんて、そんなことあるんだろうか。”ヒートに似た性衝動”なんて言ってたから……、本当にどうしようもなくなって瀬川に頼ることになったら、面倒だなと心配してたのに。  電気が消され瀬川が寝静まったのを確認して、静かに起き上がり、スマホを手にトイレへ向かった。  便座に腰掛け、カメラロールから好きな人の写真を表示する。それをじっと見つめ、いつものような手順で事を済まそうとしたが、どうにも気が乗らない。違う写真に変えてもダメ。  ついに俺は失恋を乗り越えたのか……。一抹の寂しさを感じた。  背徳感とともに、他の性的なものを検索する。  どうしてもだめだった。試しに扱いても、あまり気持ちいいと感じない。後ろにも手を伸ばしてみた。あたりを指でなぞると、少し気持ちいいような気がしたけれど、性的なものじゃない。  これも媚薬のなにか……副作用なんだろうか。  こんなこと初めてだった。だるさが抜けて体調がもどったとしても、性欲だけこのままなんてことは……。  いや、性欲がなくたって生きていけるよな。だけど媚薬の副作用でこうなったのなら少し怖い。一時的に性欲を高めるのだから、一気に減退っていうのも不自然じゃない。  俺は悩みながらトイレの水を流し、洗面所で手を洗い、すごすごと部屋に戻る。ベッドに腰掛け、ペットボトルの水を飲んで、横になった途端声がした。 「小竹くん、大丈夫?」 「ああ、うん……ただのトイレ」 「そう。ならよかった」  寝ようとしたが、そもそもは瀬川のせいだ。隠す必要もないだろう。 「なぁ。媚薬石鹸……、副作用って他になにか言ってなかった?」 「他に……? って、どこか痛む?」 「痛みではないんだけど」  俺が言い躊躇っていると、瀬川は起き上がった。そして枕元の小さなシェードランプを付けた。 「どうしたの?」 「性衝動があるかもって言ってたよな? それが全然ないのは……俺に偶然耐性があったってことかもしれない。でも、普通にオナニーしようとしても、できないんだ。いつもなら絶対抜けるやつでも効果無いし、……変だなって。これも媚薬の副作用なのかもしれない」  こんな話じゃ、いま抜きに行ってたのがバレてしまったろう。まあだけど、瀬川はオナ禁の話まで出してるからいいか、と思う。  瀬川は俺をじっと見て、耳のあたりを掻いた。 「わからないけど……、明日もう一度尋ねてみよう。俺も少し調べてみる」 「うん」  瀬川がランプの紐を引っ張る直前、急に俺は思い立った。 「そっちのベッドで寝ちゃダメ?」 「な……何? それって、どういう」 「もちろん、並んで寝るってだけだけど……。俺と瀬川は、相性がいいαとΩってことで同室になってる。今のとこ、ピンとはこないけどさ。それで、もう少し近くにいれば、影響があって普通の状態に戻れるんじゃないかなーって……」  ちょっと唐突すぎたか。でも、2日一緒にすごしてわかった。瀬川は基本的にはすごく親切で優しいやつだ。それに、あの”美佐央”にふられたばかりで、俺に興味もないだろう。フラれたと言うが、まだまだ執心のようだし……。 「……うん、いいよ」 「よかった! じゃ、頼む」  ベッドは二人並んでも問題ないくらいには広かった。余裕があるわけじゃないけど、窮屈でもない。瀬川は、奥に寄って俺のスペースをあけてくれる。 「ありがとう」  枕を持って移動した。落ち着く体勢を見つけると、瀬川を振り返った。 「電気消していい?」 「うん」  ランプの紐をひっぱり、枕に頭をつけてから言った。 「おやすみ」 「うん……、おやすみ」  目を閉じながら、もしかすると瀬川がここでの最初の友達なのかもな……と考えた。ちょっと変なところはあるけど憎めないし、知り合いや友達が多い理由も、分かってきた。 「瀬川」 「ん、何?」 「俺も失恋、したんだ」 「失恋……?」  口にしてようやく初めて『失恋』と認められたような気がする……。 「近所の、7歳年上の男の人。兄貴みたいな感じで……すごく世話になってた。憧れの人だった」 「へぇ……」 「俺の住んでた村って、Ωは俺と、もうひとり女の子しかいなかった。男のΩって、田舎じゃ珍しがられる。俺も昔はもう少し弱気だったし、からかわれたりして……、。でもその人がいろいろ教えてくれたり、守ってくれたりした。俺、高校を出てから、どうしようか迷ってた。座学が嫌いだし、進学は考えてなかった。本格的に家の手伝いを始めた。和菓子作るほうじゃなくて、それ以外の仕事で出来ること」 「うん……」 「でもそしたらある日、その人がさ。ここの書類持ってきたんだ。彼は親戚に土地の名士がいて、そのツテで……。違う環境の友だちをつくるのもいいんじゃないかって。交流会には男のΩも多く来るから、いろんな話ができる。こういう場所でαの番っていうのも、一度探してみたらいいって。もちろん同室の相性システムのことも話してくれて……」 「そうか……」 「昔から……Ω性の男が村にいなくて、孤独を感じてるって思われてたんだ。俺は、いつも相談に乗ってくれるその人がいたから、孤独も、疎外感とかもなかったのに。……ていうか、たくさん相談してたのが裏目に出たのかもな。それで、気にしてるって思われたのかも。もちろん、最終的にここへは自分で望んで来てる。でも、気持ちの整理付けて、楽しみと思えるまでにすごく時間がかかった。そっちのほうは、……結構辛かった」 「辛いに決まってるよ」  背後で呟いた瀬川。 「うん……。聞いてくれてありがとう」 「いや……」  ああ、俺の恋は終わったんだな。そう思った。こうやって人に話せるようになった。  この交流会に来たら踏ん切りが着くのかもとは思っていたけど、本当にそうなった。少し肩の荷が下りた気がする。すっきりした気持ちで眠れそうだ……。  これも、瀬川があんな情けないラブストーリーを話してくれたからだと思う。俺も打ち明けてみようと思えたのは、それが大きい。  ゆっくりと呼吸を整える。ようやく意識がぼんやりしてきた頃、声がした。 「小竹くん」 「何?」 「さっきの性欲減退のこと、俺が理由を知ってる」 「え?」  耳を疑った。  部屋は暗く顔も見えないのに、俺は背後の瀬川を振り返った。 「小竹くんは……一時的に性欲が満たされたんだよ。αとセックスしたから」 「え……俺、やられてないって言っただろ……!」 「俺とはしたんだ」 「は?」 「全然覚えてない?」 「覚えてなんか……」  そう言いながら、何かがフッと脳に浮かんでは消えた。 「あの夜のことだけど……。俺が連絡受けてもどってきたら、もうみんな廊下に出て、階段のあたりにいたんだ。責任者も来てて、処遇を話し合うため事務室に移動するところだった。俺は事情を説明して詫びたよ。でも、いまはとにかく君の体調を見てやれって言われて。本当なら他のΩがいればよかった。……深夜だったし暴れるやつもいたから、人も足りなくて……だから俺が部屋に入った。君は少しうなされてたけどすぐに収まって、普通の呼吸になって、だから俺でも大丈夫かなと思った。その時はもう換気もしてあったから、部屋に匂いが殆ど残ってなかったんだ。今思うと、楽観視しすぎていたよ」 「おまえ……」 「君は熱っぽかったし、喉が乾いてるだろうと思った。俺は、冷えたペットボトルを枕元に置こうとして、そしたら君が抱きついてきて」 「ふっ……、ふざけるな! そんな……」 「小竹くんは、俺を……その片思いの人だと思い込んでるみたいだった。スミくん、かな、俺のことずっとそう呼んでた」 「なん……」 「もちろん咬んでない。キスマークだって危ないと思って一切付けなかった」 「っ……」 「それで、……その時に性欲が解消されたんじゃないかな。君が言ったように……、もともと俺たちは相性のいいαとΩとして同室になったんだ」 「でも俺、昼起きた時にはきれいな体で……」 「俺が処理した。後ろも……」 「変態イカれちんこ野郎!」  気づいたら怒鳴っていた。俺はベッドから立ち上がった。シェードランプをつける。点いたはいいが強く引っ張りすぎて紐が抜けてしまった。 「何回出したんだよ! こんな……いくらなんでもこんなに、性欲なくなるかよ!」  情景が浮かぶ。俺は冷たいものを頬に感じて、そのあと誰かを抱きしめた。その誰かは、すごくいい匂いがした。もっと嗅ぎたくなった。服、……服だ。俺は……。眼の前にあった邪魔な布を掴んで、思いきり引きちぎって……。そうしたらもっと匂いが濃くなって、ああ探していたものはこれだったって気づいた。もう絶対に手放さないと……。 「俺は……! 俺の好きなタイプは、熊みたいな強い男だ……!! 色白で、ひょろっとしてて、ヘラヘラしているやつなんて死んでもお断り!」 「小竹くん……。俺だって、誰かの代わりだと思われながら、セックスなんて嫌だった。あんなに惨めなことって無いよ。だから、君が覚えてないならそのままにしようかって」 「嫌だったって……!?  無責任なやつだな、もともとお前のせいでこうなってるのに」 「それは反省してるし、詫びたよ。……たとえ事故みたいなものでも、一夜でも……セックス中に他の人の名前を呼ばれるのは不快だって話を」 「あげくのはてに泣いて、あんなラブストーリー聞かせて、同情誘って……すごく卑怯だ! 瀬川ってただ気が弱いだけで、いいヤツだと思ってたのに……!!」 「俺だって、もう利用されるのはうんざりだ!……好きでオナ禁してたわけじゃない……!!本当はもっと通常の恋人関係がいい……!! 普通にセックスがしたい……!!」 「俺、初めてだったんだからな! 一生恨んでやる! おまえんちの会社に投書してメールもしてやる……!! ぬけぬけと世話なんかしやがって、おまえなんか一生オナ禁してαに泣かされてろ!」
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