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7
幸い、その日は性衝動が起こらなかった。
昼まで寝てたからあまり眠くもなかった。ちょっとでもムラっとしたら、瀬川が寝静まった頃に処理しようと思っていたが……。
俺は昔から風邪の治りも早く、病気もあまりしなかった。精神・肉体において他所からの影響を受けやすいΩにしては、ずいぶん健康だと、医者からもよく褒められていた。そういうのが関係しているのかもしれない。
媚薬を使ってから2日め。
昨日よりは断然身体が軽かった。それでも、消化にいい食事で我慢した。明日のカヌーにはなんとしてでも行きたい。
瀬川は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。ほとんど部屋にいて、俺の話し相手になったり、本を読んだり、持ち込んだパソコンをいじったりしていた。
不思議なことに、その夜も性衝動は起きなかった。
俺は、3日に一ぺんぐらい自慰をする習慣があった。ここへくる前日に抜いたので、そこからだともう3日が過ぎてしまっている。まあ、環境も食事も変わったし、身体に負荷もかかって……、そういうこともあるかと思う。
だが、媚薬の副作用で苦しんでいるのに、少しもムラムラしないなんて、そんなことあるんだろうか。”ヒートに似た性衝動”なんて言ってたから……、本当にどうしようもなくなって瀬川に頼ることになったら、面倒だなと心配してたのに。
電気が消され瀬川が寝静まったのを確認して、静かに起き上がり、スマホを手にトイレへ向かった。
便座に腰掛け、カメラロールから好きな人の写真を表示する。それをじっと見つめ、いつものような手順で事を済まそうとしたが、どうにも気が乗らない。違う写真に変えてもダメ。
ついに俺は失恋を乗り越えたのか……。一抹の寂しさを感じた。
背徳感とともに、他の性的なものを検索する。
どうしてもだめだった。試しに扱いても、あまり気持ちいいと感じない。後ろにも手を伸ばしてみた。あたりを指でなぞると、少し気持ちいいような気がしたけれど、性的なものじゃない。
これも媚薬のなにか……副作用なんだろうか。
こんなこと初めてだった。だるさが抜けて体調がもどったとしても、性欲だけこのままなんてことは……。
いや、性欲がなくたって生きていけるよな。だけど媚薬の副作用でこうなったのなら少し怖い。一時的に性欲を高めるのだから、一気に減退っていうのも不自然じゃない。
俺は悩みながらトイレの水を流し、洗面所で手を洗い、すごすごと部屋に戻る。ベッドに腰掛け、ペットボトルの水を飲んで、横になった途端声がした。
「小竹くん、大丈夫?」
「ああ、うん……ただのトイレ」
「そう。ならよかった」
寝ようとしたが、そもそもは瀬川のせいだ。隠す必要もないだろう。
「なぁ。媚薬石鹸……、副作用って他になにか言ってなかった?」
「他に……? って、どこか痛む?」
「痛みではないんだけど」
俺が言い躊躇っていると、瀬川は起き上がった。そして枕元の小さなシェードランプを付けた。
「どうしたの?」
「性衝動があるかもって言ってたよな? それが全然ないのは……俺に偶然耐性があったってことかもしれない。でも、普通にオナニーしようとしても、できないんだ。いつもなら絶対抜けるやつでも効果無いし、……変だなって。これも媚薬の副作用なのかもしれない」
こんな話じゃ、いま抜きに行ってたのがバレてしまったろう。まあだけど、瀬川はオナ禁の話まで出してるからいいか、と思う。
瀬川は俺をじっと見て、耳のあたりを掻いた。
「わからないけど……、明日もう一度尋ねてみよう。俺も少し調べてみる」
「うん」
瀬川がランプの紐を引っ張る直前、急に俺は思い立った。
「そっちのベッドで寝ちゃダメ?」
「な……何? それって、どういう」
「もちろん、並んで寝るってだけだけど……。俺と瀬川は、相性がいいαとΩってことで同室になってる。今のとこ、ピンとはこないけどさ。それで、もう少し近くにいれば、影響があって普通の状態に戻れるんじゃないかなーって……」
ちょっと唐突すぎたか。でも、2日一緒にすごしてわかった。瀬川は基本的にはすごく親切で優しいやつだ。それに、あの”美佐央”にふられたばかりで、俺に興味もないだろう。フラれたと言うが、まだまだ執心のようだし……。
「……うん、いいよ」
「よかった! じゃ、頼む」
ベッドは二人並んでも問題ないくらいには広かった。余裕があるわけじゃないけど、窮屈でもない。瀬川は、奥に寄って俺のスペースをあけてくれる。
「ありがとう」
枕を持って移動した。落ち着く体勢を見つけると、瀬川を振り返った。
「電気消していい?」
「うん」
ランプの紐をひっぱり、枕に頭をつけてから言った。
「おやすみ」
「うん……、おやすみ」
目を閉じながら、もしかすると瀬川がここでの最初の友達なのかもな……と考えた。ちょっと変なところはあるけど憎めないし、知り合いや友達が多い理由も、分かってきた。
「瀬川」
「ん、何?」
「俺も失恋、したんだ」
「失恋……?」
口にしてようやく初めて『失恋』と認められたような気がする……。
「近所の、7歳年上の男の人。兄貴みたいな感じで……すごく世話になってた。憧れの人だった」
「へぇ……」
「俺の住んでた村って、Ωは俺と、もうひとり女の子しかいなかった。男のΩって、田舎じゃ珍しがられる。俺も昔はもう少し弱気だったし、からかわれたりして……、。でもその人がいろいろ教えてくれたり、守ってくれたりした。俺、高校を出てから、どうしようか迷ってた。座学が嫌いだし、進学は考えてなかった。本格的に家の手伝いを始めた。和菓子作るほうじゃなくて、それ以外の仕事で出来ること」
「うん……」
「でもそしたらある日、その人がさ。ここの書類持ってきたんだ。彼は親戚に土地の名士がいて、そのツテで……。違う環境の友だちをつくるのもいいんじゃないかって。交流会には男のΩも多く来るから、いろんな話ができる。こういう場所でαの番っていうのも、一度探してみたらいいって。もちろん同室の相性システムのことも話してくれて……」
「そうか……」
「昔から……Ω性の男が村にいなくて、孤独を感じてるって思われてたんだ。俺は、いつも相談に乗ってくれるその人がいたから、孤独も、疎外感とかもなかったのに。……ていうか、たくさん相談してたのが裏目に出たのかもな。それで、気にしてるって思われたのかも。もちろん、最終的にここへは自分で望んで来てる。でも、気持ちの整理付けて、楽しみと思えるまでにすごく時間がかかった。そっちのほうは、……結構辛かった」
「辛いに決まってるよ」
背後で呟いた瀬川。
「うん……。聞いてくれてありがとう」
「いや……」
ああ、俺の恋は終わったんだな。そう思った。こうやって人に話せるようになった。
この交流会に来たら踏ん切りが着くのかもとは思っていたけど、本当にそうなった。少し肩の荷が下りた気がする。すっきりした気持ちで眠れそうだ……。
これも、瀬川があんな情けないラブストーリーを話してくれたからだと思う。俺も打ち明けてみようと思えたのは、それが大きい。
ゆっくりと呼吸を整える。ようやく意識がぼんやりしてきた頃、声がした。
「小竹くん」
「何?」
「さっきの性欲減退のこと、俺が理由を知ってる」
「え?」
耳を疑った。
部屋は暗く顔も見えないのに、俺は背後の瀬川を振り返った。
「小竹くんは……一時的に性欲が満たされたんだよ。αとセックスしたから」
「え……俺、やられてないって言っただろ……!」
「俺とはしたんだ」
「は?」
「全然覚えてない?」
「覚えてなんか……」
そう言いながら、何かがフッと脳に浮かんでは消えた。
「あの夜のことだけど……。俺が連絡受けてもどってきたら、もうみんな廊下に出て、階段のあたりにいたんだ。責任者も来てて、処遇を話し合うため事務室に移動するところだった。俺は事情を説明して詫びたよ。でも、いまはとにかく君の体調を見てやれって言われて。本当なら他のΩがいればよかった。……深夜だったし暴れるやつもいたから、人も足りなくて……だから俺が部屋に入った。君は少しうなされてたけどすぐに収まって、普通の呼吸になって、だから俺でも大丈夫かなと思った。その時はもう換気もしてあったから、部屋に匂いが殆ど残ってなかったんだ。今思うと、楽観視しすぎていたよ」
「おまえ……」
「君は熱っぽかったし、喉が乾いてるだろうと思った。俺は、冷えたペットボトルを枕元に置こうとして、そしたら君が抱きついてきて」
「ふっ……、ふざけるな! そんな……」
「小竹くんは、俺を……その片思いの人だと思い込んでるみたいだった。スミくん、かな、俺のことずっとそう呼んでた」
「なん……」
「もちろん咬んでない。キスマークだって危ないと思って一切付けなかった」
「っ……」
「それで、……その時に性欲が解消されたんじゃないかな。君が言ったように……、もともと俺たちは相性のいいαとΩとして同室になったんだ」
「でも俺、昼起きた時にはきれいな体で……」
「俺が処理した。後ろも……」
「変態イカれちんこ野郎!」
気づいたら怒鳴っていた。俺はベッドから立ち上がった。シェードランプをつける。点いたはいいが強く引っ張りすぎて紐が抜けてしまった。
「何回出したんだよ! こんな……いくらなんでもこんなに、性欲なくなるかよ!」
情景が浮かぶ。俺は冷たいものを頬に感じて、そのあと誰かを抱きしめた。その誰かは、すごくいい匂いがした。もっと嗅ぎたくなった。服、……服だ。俺は……。眼の前にあった邪魔な布を掴んで、思いきり引きちぎって……。そうしたらもっと匂いが濃くなって、ああ探していたものはこれだったって気づいた。もう絶対に手放さないと……。
「俺は……! 俺の好きなタイプは、熊みたいな強い男だ……!! 色白で、ひょろっとしてて、ヘラヘラしているやつなんて死んでもお断り!」
「小竹くん……。俺だって、誰かの代わりだと思われながら、セックスなんて嫌だった。あんなに惨めなことって無いよ。だから、君が覚えてないならそのままにしようかって」
「嫌だったって……!? 無責任なやつだな、もともとお前のせいでこうなってるのに」
「それは反省してるし、詫びたよ。……たとえ事故みたいなものでも、一夜でも……セックス中に他の人の名前を呼ばれるのは不快だって話を」
「あげくのはてに泣いて、あんなラブストーリー聞かせて、同情誘って……すごく卑怯だ! 瀬川ってただ気が弱いだけで、いいヤツだと思ってたのに……!!」
「俺だって、もう利用されるのはうんざりだ!……好きでオナ禁してたわけじゃない……!!本当はもっと通常の恋人関係がいい……!! 普通にセックスがしたい……!!」
「俺、初めてだったんだからな! 一生恨んでやる! おまえんちの会社に投書してメールもしてやる……!! ぬけぬけと世話なんかしやがって、おまえなんか一生オナ禁してαに泣かされてろ!」
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