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8
瀬川は俺を凝視していた。
あまりに見つめられて居心地が悪い。乱れた息を整えながら、顔を背けた。
「今日は違うところで寝る」
そう言ってベッドから下りる。貴重品だけ持っていこうと、机のほうへまわって支度をしていると、ポツリと聴こえた。
「俺が出ていくよ、そのほうがいい」
瀬川はベッドの向こう側へと足を下ろし、着替え始めた。几帳面にも前開きのちゃんとしたパジャマを着ている。
俺も瀬川が出ていくほうが道理だと思っていたから文句は無いが、さっきの態度から一転、やけに潔いので戸惑ってしまった。
俺はベッドに戻る。薄い掛け物の中にはいって、意味もなく足元を眺めた。ちらちらと、瀬川の姿を盗み見る。やがて彼は小さなショルダーバッグひとつを手に持って、ドアへ向かった。途中、俺を振り返って言う。
「じゃあ、また朝に連絡するよ」
「……わかった」
***
翌朝、7時きっかりに瀬川からメッセージが入っていた。
昨日はフロントに頼んで予備の部屋を使ったこと。それから、別の部屋に移る相談。
今の部屋には苦い記憶もあるだろう、だが移動が心身の負担になる場合もある。どちらが出ていくかは小竹くんが決めて欲しい、とあった。
俺は別部屋にしたいとまでは考えていなかったので驚いた。一晩寝て起きたら、顔も見たくないというほどじゃなかったので、それを正直に書いたら、ありがとう、とだけ返信が来た。
身体の調子はほとんど元に戻っていた。
朝食のビュッフェ会場では好奇の視線にさらされた。事件の話は知れ渡っているんだろう。退去した人が複数いるんだから隠し通せるはずもない。
遠巻きにして誰も話しかけてこなかったが、そういう気分でもなかったので楽だった。友達作りは……明日からでいいか。いまは瀬川のことをどうするかが先だ。当の瀬川は見当たらない。
俺は食べたいものを片っ端からとって、席についた。食べ放題っていうのはいい。俺は満腹までは食べないけれど、好きなものを好きな量選べるというのは、気分がいいものだ。窓際の4人席に落ち着いた。
2日ぶりの普通の飯だ。なにからなにまでめちゃくちゃ美味い。
「小竹くん」
顔を上げるとテーブル脇の通路に、微笑んだ”美佐央”が立っていた。トレイを持っている。
ツヤツヤの髪の毛が揺れ同時に”オナ禁”の文字が頭に浮かぶ。その隣には不機嫌な顔の男がいた。喧嘩っ早そうで……、たぶん俺はガンつけられていた。
「もう体調はいいの?」
「うん。ありがとう、元気だよ」
「ここ座っていい?」
あまり座ってほしくなかった。が、断ったとしても今後の展開が面倒そうだ。
「どうぞ」
美佐央の隣の男も、しかめ面のまま席についた。
「こっちは、魚谷。同室なんだ」
「……よろしく」
「よろしく、小竹です」
初対面だし、俺は一応愛想笑いをしてみたが、男はそっけないままだ。
「瀬川は一緒じゃないんだね。君のことあんなに心配してたのに」
まいった。瀬川と口裏をあわせてくればよかった。せめて事件のことがどう伝わってるのかとか、瀬川から聞いた話を美佐央にどこまでもらしていいのかとか……。
「実は、瀬川とケンカしたんだ。だから今朝から別行動。俺も体調は戻ったんで、もういいかなって」
「へー、ケンカ……。あいつって、事なかれ主義でしょ。ケンカなんてなるんだねぇ。小竹くんって、わりとはっきり物を言うタイプ?」
「まあ、どっちかっていうとそうかな」
「俺、君みたいな人のほうが、分かりやすくて好きだな。あ、幼馴染って話はきいた?」
「ああ、小学校から一緒だって」
「そうそう、腐れ縁なんだよね」
美佐央は微笑んだ。確かに美人は美人で……、瀬川が入れ込むのもわからなくもないが、顔が整いすぎて、笑顔にすら隙がないように見えて、俺はあんまり好きじゃない。俺はオムレツをフォークで口に運ぶ。
「ねえ明日、俺達の階の談話室でパーティーやるんだけど、小竹くんもこない? 全部で20人くらいになると思う。ダーツと、あとは飲んで話すだけだけど。一人でもいいし、瀬川と一緒でもいいよ」
戸惑ったけれど、明日というと特に断る理由もない。
「うん……。そうだな、じゃあ瀬川に話してみるよ」
俺は朝食のあと支度をして、ホテルを出た。午前中はまだひんやりした空気が残っていて気持ちいい。
林の中の遊歩道を30分ほど下っていくと、やがて視界一面の湖が現れる。
係員もまだ来ていない。一番のりで湖畔にたち、岸に留めてあるカヌーの様子を眺めていると、俺のあとに数人来て、結局そこで仲良くなった。自己紹介をすると、印象が違ったので驚いた、と言われた。
なんでも……。
俺は、αたちがケンカまでして取り合ったほどの魅力的なΩの青年。
複数のαが退去となった事件に責任を感じて具合を悪くし、部屋で泣きながら療養している……という設定だったらしい。きっと媚薬を伏せたせいでこうなったんだろう。初めてのカヌーを楽しんだあとは、その人達と湖畔そばのロッジで昼食をとり、午後2時頃ホテルに帰ってきた。
瀬川は部屋に居なかった。どこにいるのかとメッセージを打っても返信がない。
少し疲れたかな、と、俺はベッドに横になった。数日前ここで瀬川とセックスしたなんて信じられない。なにしろ抱き寄せたところまでしか覚えていない。
『誰かの代わりだと思われながら、セックスなんて嫌だった』
同じようなこと、2回も文句言ってたな。
美佐央とセフレになって長いだろうに、そういうところは気にするのか、と不思議に思った。美佐央とそれ以外では違うってことなのか。
俺に興味なさそうだったのに、よくやる気になったな。やっぱり媚薬の効果か。
でも部屋に匂いは残ってなかったって言ってた。だから自分でも平気かと思ったって……。
(えっ)
俺は急に思い至った。
昨日はセックスした事実を受け止めるのに精一杯だったけれど、よくよく考えてみると不自然だ。
『嫌だった』『惨め』『不快』。そう認識があって文句を言うなら、瀬川は自分で止めることだってできたはずだ。でも、できなかったとしたら……。
だって瀬川より俺のほうが強い。取っ組み合いをしたら絶対に俺が勝つ。
身長は瀬川のほうが高いけど、あいつはとにかく細いし、運動もあまりやってこなかったと言ってた。
俺が強引にセックスを求めたのなら、瀬川の態度には納得がいった。
覚えていないならと、なかったことにしようとした。言い合いのときも、媚薬を持ち込んだことは詫びたが、セックスに関しての謝罪はなかった。
そして俺が怒鳴ったあとの、変な空気。
(俺が、むしろ加害者なんじゃ…)
メッセージの返信はなく、じっとしていられなくなって、俺はホテル内をうろついた。だいたいの共用部分を見て回り、あとはホテルの裏手にある庭を残すだけとなった。
「瀬川!」
彼は、小さな噴水脇のベンチに座っていた。ちょうど木陰になっている。それにしたってこの時間は暑いだろう。俺は瀬川の正面に立った。
「メッセージ入れたんだけど」
「ごめん、スマホ部屋に置いてきたんだ」
俺もよくやるから文句はいえない。俺は辺りを見回して言った。
「暑くないか、ここ」
「たまに風で、噴水のしぶきが飛んでくるよ」
「ふうん……。ここで何してたの」
手元に雑誌や本があるわけでもない。
そもそもこの陽射しじゃ、白くちらついて文字なんて読めないだろう。
「空気を吸ってた」
「……メッセージにも書いたけど、部屋、別にあのままでいい。一晩寝たらどうでもよくなった」
「小竹くんがいいなら、俺もいいよ」
瀬川はじっと俺をみた。
この顔。なんだか意味ありげで、俺は落ち着かない気持ちにさせられる。こんなところに一人で……もしかして、事件のことで周りからはぶられてるのか?なんて勘ぐりもした。
「昨日は怒鳴って悪かった」
「いいよ、あのくらい。結局ぜんぶの原因は俺。だから、言われて当然だと思う」
「あー……、あのさ……」
あの夜って、もしかして俺が強要したんじゃ……。
どう切り出せばいいのかわからない。俺の熱の発散に瀬川がつきあわされたんだとして……、それを確認したとして、どうする。もう過ぎたことなのに。瀬川だって忘れようとしていたのに。
きっと瀬川がそこを主張しないのは、媚薬を持ち込んだ責任を感じているから……。
何から話そうか……。むしろこのまま触れずに忘れたほうがいいのか悩んでいると、瀬川は言った。
「『変態イカレちんこ野郎』。あの言葉……、胸に刺さったよ」
「えっ、何が」
「こんなに自分が、人の言葉に衝撃を受けるなんて思わなかった。すごく鮮烈だった」
「は……」
「似たようなこと、美佐央ちゃんによく言われるんだけど……、小竹くんから言われてハッとした。急に言葉の輪郭がはっきり見えたと言うか……、稲妻にうたれたみたいだったよ。いままでは意識もしなかったんだ」
「よ……、よくわからないけど、そんな言葉……言われ慣れてるとか、おまえ相当ナメられてるよ。オナ禁の話でも思ったけど」
「そうかな」
「昨日、『もう利用されるのはうんざりだ』って言った。利用されてる自覚あるんだろ」
「……けど、そう思いたくないんだろうね。認められないんだよ。まだ美佐央ちゃんを信じたいって気持ちも残ってる」
「あっちから、セフレはもう終わりって言われてるんだろ」
「うん」
「じゃ、何を信じるんだよ。美佐央の気が急に変わること? 紆余曲折あるけど、最後は自分を好きになるとか?」
瀬川は同意も反論もしなかった。
口では強がっていても、本当はもう無理だって……望みはないって、気づいているってことなのか。
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