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階下の物音に気が付いたのは亜美だった。
「凛、起きたわ」
声より早く立ち上がると、襖をあけて階下に向かって叫ぶ。
「凛、ママ上だからすぐ行くからね」
襖を開けたまま仏壇を見た亜美は心の中で言った。
(お父さん、ありがとう)
階段を降りる亜美を見て、
「さて私たちも降りようか。夕飯の支度しなきゃね」
立ち上がった明美は仏壇の前に座って手を合わせた。そして声にはせずに唇だけで呟く。
(お父さん、ありがとうね。これからも二人を守ってやってね)
「ねえ、お饅頭とか持って下りる?」
座卓の上を片付けながら明美の背中に向かってそう言ったけれど、真奈美は置いておきたいと思っていた。今夜は亜美も凛も泊まることになっている。それならば風呂上がりに、ここでまた久しぶりに話したいと。
トレイの上にビールの空缶と饅頭の包み紙を乗せてから、真奈美は仏壇の梟を見る。父はあの梟の置物をずっと大切にしていた。今、思えば不格好な作品だけれど、なんといっても真奈美の処女作だ。
昭和と平成、ふたつの時代を生きて、私たちをいつも見守ってくれていた。口煩いことを言われたのも、『ビールはコップに入れて飲め』ということくらい。
創作のときは山にこもり、終わればふらりと帰ってくる、そんな自分に文句も言わずにいてくれたこと。梟をずっと大切にしてくれていたこと。
昭和生まれの男性の見本のように、寡黙で真面目で静かに優しかった父の姿が真奈美の脳裏に蘇っていた。
「お父さん、ありがとうね、がんばるね」
ひとりになった部屋で声にだしてそう言った真奈美は、トレイを持って立ったまま仏壇に向かって一礼をした。
そして襖を閉めて階段を降りる。階下からは寝起きの悪い凛のぐずる声が聞こえていた。
三人がいなくなった、まだ彼女たちの体温が残っているような空気が漂うなかで、仏壇の梟が楽しそうにころんと動いたことはもちろん誰も知らない。
それは、ただなにか偶然の出来事のひとつというだけなのかもしれない。
<fin>
2020.7.9
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