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夢月亭一夜
男は、いま、眠りから覚めたような顔をした。
「いらっしゃいませ」
主がそう声をかけると、今度は急に我に返ったようにハッとして、目を何度もしばたたき、続いてぶるぶるとかぶりを振った。それでも自身のいる場所を思い出せないのだろう。
「……喫茶店?」
周囲をぐるりと見まわし、ややあって、そう誰に聞くともなしに呟いた。
主は、この店の唯一の客である少女と目を見合わせ微笑みあい、男へもう一度声をかけた。
「いらっしゃいませ。――どこか別の場所においでたのですか?」
「そんなところに立っていないで、こっちに来ませんか? いまならマスターが、美味しいコーヒー、おごってくれますよ?」
不思議な雰囲気の主と、セーラー服姿の少女に促され、男はようやく足元にある四段ほどの階段を降りることにした。
「わたしはたしかさっきまで別の場所にいたはずなんだが。どうして喫茶店にいるのだろう?」
少女からひとつあけたスツールに座り、カウンターごしに主へ問うてみる。
主は、口元に柔らかい笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。
「この店では、どういうわけか、そのようにおっしゃるお客様が多いのですよ」
「? ……お嬢さん、あなたもかい?」
「あたしは違います。あたしはここの常連なんです」
少女はそういって人好きのする笑みを浮かべる。
あめ色に磨かれた床、少し照明を落とした落ちついた店内。アンティーク調の家具に、ひとつひとつ柄の違う、繊細なコーヒーカップを飾った棚。大人の隠れ家的な雰囲気を持つこの店は、女子高生を常連に持つ感じではなかったが、奇妙に彼女と店は似合っていた。
そんなことに、なぜか安堵する。
「――なにか、お飲みになりますか?」
頃合を見計らった問いかけに、男は「お勧めはあるかい」と尋ねて気づく。いつもジャケットの内ポケットに入れている馴染みの重さが感じられなかったのだ。慌ててジャケットの上から、内側から手を当て探してみるが、
「困ったぞ、どうやら財布がない」
ほんとうに困って口にしたそれを、少女が軽やかに笑い飛ばす。
「やだわ、おじさん。あたし、マスターがおごってくれるっていったでしょう?」
「しかしね、それじゃなんとも」
据わりが悪い。
どうして自分がいまいるのかわからないはじめての喫茶店で、いわれるまま主におごってもらうのも気が引ける。素直に誘いに乗ることもできず、あーだのうーだの言葉にならない声を発していたら、主が、
「なら、お代がわりにひとつ、お話を聞かせてくれませんか」
などという。
そんなものでよいのなら。男がそういって頷くと、主は男の目をまっすぐ見据え、訊いてきた。
「三春島の狛犬は、また血の涙を流したのですか?」
――どうして知っているのだ。
男は、驚愕して主を見た。主の目は、あの夜の満月に、とてもよく似ていた。
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