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闇の向こうから
「なるほど、そういうことだったんだぁ」
電話の奥で、柚羽が納得したように言った。
そろそろ寝ようかと思っていたところに電話がきて、慎の話から始まり、元彼との悲惨な恋愛談を語ること1時間。健悟と付き合っていた間は電話もできず、ほとんど音信不通になっていた理由を伝えると、柚羽から疲れの滲んだ溜息が返ってきた。
「しかしヒドイ男と付き合ったもんだね。友達と電話するのも禁止するとか、ちょっと異常だわ。カリンもよく半年も我慢したよ。それは心も病んじゃうわ。聞いてるだけでうんざりするもの」
「だよね。私も話しててうんざりしてるもん」
お互いの笑い声が重なった。柚羽とゆっくり話すのは本当に久しぶり。気心知れた友達との会話は、気持ちのいい解放感がある。花梨はコップに水を注いで、ソファに戻った。
「それで不眠症は治ったの?」
「まだ時々眠れない日はあるけど大丈夫。薬も飲んでるし、先生のおかげで落ち着いてるよ」
「ねぇ、その主治医のことだけど……」
柚羽の声のトーンが少し落ちた。どこか訝しげに問いかけてくる。
「先生って兄弟とかいる?」
「一人っ子のはずだよ。父親は一人息子の自分を外科医にしたかったけど、反抗して心療内科医になったって話してたからね」
「そう……お名前なんだっけ?」
「西園先生」
「下の名前は?」
急にどうしたんだろう。不思議に思いながら、花梨はテーブルの上に置いてある紙袋を開いた。中から錠剤を取り出し、コップの横に置く。
「慎だけど、いきなり何? もしかしてユズのタイプだった?」
「全く」
即答した柚羽が、電話の向こうで苦笑している。
「温厚で優しそうな人だったけど、あんなモッサリした感じの男、わたしの趣味じゃない」
「ちょっと、もう少し遠慮してよね。確かに見た目はああだけど、先生は凄く男らしいんだから」
「そうなの?」
「細身だけど意外に筋肉質だし、大人の余裕っていうか、とにかく元彼とは器の大きさが違うの。ゴムがないからって最後までしなかったんだよ? 普通なら流されちゃうでしょ」
「なぁに、それノロケ? ひど~い、わたしがずっと彼氏いないの知ってるくせにぃ」
それを聞いてふと思い出した。まだ健悟と付き合う前にカフェでお茶した時、気になる人がいると聞いたけれど、その後はどうなったのか。興味本位で話題に乗せた。
「ねぇユズ、演奏のバイト始めた頃に気になる男の人がいるって言ってたよね? その人とは今でも会ってるの?」
「最近は会ってないな。忙しい人だからね」
「相手ってバーテンダー? それとも演奏者仲間?」
「実業家だよ。ススキノに何店舗もクラブやバーを持ってるらしいの。詳しくは知らないんだけどね、わたしも一晩過ごしただけだし」
なるほどと頷きながら、花梨は天井を見上げた。柚羽は正統な美人だ。メイクで誤魔化してるわけじゃない。ストレートの長い髪が映えるスレンダーな美女が、ライトの中でピアノを奏でる姿は同性の目から見ても魅力的。実際昔からモテたし、大学時代も3ヶ月に1回のペースで彼氏が変わっていた。その美女を一晩しか相手にしないなんて、いくらでも女を食べ散らかせるだけの金がある男なんだろう。1回つまみ食いして終わっているのも納得できた。
「ユズからは誘わないんだ?」
乾いた笑いが聞こえた。
「誘ったよ、何回もね。でもダメなの。いつも軽く流されちゃって」
「ユズの誘いを断る男なんているんだね。よっぽどカッコイイのかな?」
「凄く色っぽい人だよ。めっちゃイイ男。悪いけどあの主治医より2オクターブは上」
「先生をイジるのやめてよっ、しかもその例え意味わかんないから」
ケラケラ笑いながら柚羽が言った。
「まぁ、詳しいことは今度ゆっくり話すね。サラリーマンのカリンは朝早いでしょ。また連絡するから、そのうちご飯食べようよ」
「うん、楽しみにしてる」
ちゃんと不眠を治すよう念を押して、柚羽が電話を切った。気づけばもう11時半。明日は業者とイベント用ポスターの打ち合わせや、雑誌社への挨拶回りと、仕事が盛りだくさんだ。朝までしっかり眠るため、一昨日もらった薬を飲んで花梨はベットに入った。
部屋の電気が落ちて闇に包まれると、あの甘美な夜を思い出してしまう。生まれて初めて感じた体の疼き。本音を言えば、抱いて欲しかった。はしたないと蔑まされてもいいから、慎と繋がりたかった。今だって凄く慎に会いたい。声が聞きたいけれど、電話は控えている。
重たい女だと嫌われたくないし、声を聞けば余計に会いたくなる。あと数日我慢すれば受診日だ。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせながら、花梨はスマホを枕元に置いて静かに目を閉じた―――突然、画面が青白く光ったのはその直後だった。安眠を妨げようとするかのように、ブルーライトが瞼を弾く。
花梨はビクリと目を開けた。メールだ。スマホの画面には、メッセージを受け取った証がある。深夜と呼ぶには早すぎる時間なのに、どうして? ひょっとすると由緒正しい迷惑メールかもしれないと、複雑な気持ちのまま花梨はメッセージを開いたが―――
> あいつの抱き方はどうだった?
「なんでっ……!?」
花梨は身震いした。なんでそれを知っている!? 一昨日、慎の家に泊まり、その夜何があったのかを、なぜ差出人は知っているのか―――瞬間的に健悟の顔が頭に浮かんだ。ほとんど反射的に花梨はスマホを持って起き上がった。
恐怖や羞恥よりも怒りで体が震えている。大切なものを汚されたような気がした。今までずっと沈黙してきたが、もう我慢ならない。衝動的に花梨は返信欄を開いた。怒りと緊張に震える指で、文字を打ち込んでいく。
> いい加減にして! 迷惑なの!
叩きつけるように送信した。
健悟からの嫌がらせにどれ程苦しめられたことか。思い返すと腹が立った。別れてからも行動を監視し、夜中に不愉快なメールを送りつけてくるなんて、悪質極まりない。こんな男と付き合っていたかと思うと、自分が情けなくなってくる。このメールは保存しておこう。これ以上付きまとうようなら警察に訴えてやる。そう息巻いた瞬間、返信が来た。
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