カタルシス

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カタルシス

> 愛してる メッセージは、恋人から送られてきたものではなかった。  受信したスマホのライトが眠りを弾く。  深夜2時。  乱暴に送りつけられたメッセージが、今夜もブルーライトの中に浮かんでいる。    枕元で灯った青白いスマホの明かりは、夜闇に沈んでいた寝室の家具をぼんやりとあぶり出し、寝惚けている意識を揺さぶり起こした。 > そんな言葉はいらないんだろ?  一方的に呟いては沈黙し、また気紛れに無遠慮な言葉を送り付けてくる不気味なメッセージは、一体誰が、どんな悪意を持って送っているのか。  何が目的なのか。  見当もつかないまま、米里花梨(よねさと かりん)は震える手でスマホを手に取った。 > 俺には見えてる > お前の願望が  だが得体の知れない"誰か"からのメールは、こちらの恐怖心をより一層煽り立て、嘲笑うかのように続く。 > お前は愛して欲しいわけじゃない  画面に浮かぶ文字の奥から、"誰か"の視線をくっきりと感じた。マジックミラー越しに見られているような、気配だけが滲む存在感に背筋が寒くなる。  花梨は体を起こすと、メッセージの裏に潜む男と向き合った。逃げてちゃダメ。スマホの奥に隠れている影を見つけ、実体に触れなければ終わらない。  画面に浮かぶ男の言葉を見つめながら、花梨は恐怖に震える心を落ち着かせようと深く呼吸した。いや、鎮めようとしているのは恐怖心ではなく好奇心かもしれない。  異常なまでに自分へ執着する相手は、どんな男なのか。  興味がないと言えばウソだった。  これほどまでに荒々しい激情を、男は、どのように生み出しているのか知りたいと思った。  貫いてきた沈黙を破って、自ら男が隠れている闇に踏み込んでみよう―――返信欄を指で触れようとした、その時だった。 「あっ……!」  また、メッセージが届いた。 > お前は――― 「お薬の副作用は出てませんか?」  労わるような優しい口調で、主治医が問いかけてきた。 「朝起きられないとか、午前中に眠気があるなどの持ち越し効果は出てませんか?」 「大丈夫です」  長テーブルを挟んで対面のソファに座る主治医に、花梨は力強く答えた。気持ちはすごく落ち着いていた。主治医が白衣を着てないこともそうだけど、病院らしからぬこの診察室も心を和ませてくれる。  心療内科を受診したのは、元彼と別れて2週間後のことだった。元彼の異常な束縛に耐えられなくなって別れたが、解放された途端に眠れなくなった。原因に心当たりはない。ただ、理由もなく眠れないのだ。やむを得ず不眠を扱う病院をネットで探して訪れた。ここは完全予約制で、患者同士が顔を合わせずに済むところが良い。心を病んで医療に頼る姿など、誰にも見られたくないから。   心療内科・にしぞのクリニック―――札幌でも高級住宅街で知られる円山(まるやま)にあり、このエリアが円山と呼ばれる由縁となった標高225mの小さな山の麓に建つ一軒家は、診療所というよりオシャレなカフェのようだった。もともとは外国人牧師が建てた住宅で、開業するのにリノベーションしたという風変わりな診療所だ。  アール・デコ風の佇まいは中世ヨーロッパの趣を残し、茶色い壁に縦長の窓が並ぶ外観は、家というより高級ペンションに近い。左側は医院長の住宅らしい。ぽっこりと横に張り出たレンガ造りの部分が診療所で、花々が美しく咲き誇る庭に囲まれている。  診察室はその広い庭園に面していた。全く病院臭さのない部屋には、医療器具らしき物は一切ない。あるのは脚の短いガラス製の長テーブルと、それを挟んで白いソファが2つ。まるでホテルのラウンジみたいな部屋には絵画が飾られ、アンティークな木製の台の上で、布傘ライトが優しく光っている。とても診察室とは思えない空間の中で唯一、対面に座る30代と思しき男性が医師であるのを証明するのは、壁に掛けられた医師免許証だけ。  西園慎(にしぞの しん)―――氏名が記載された免許状には、国家試験に合格し、医師法により医師の免許を与えると明記されている。とはいえ、国のお墨付きがあっても彼は全く医者に見えなかった。  背は高いものの、細身の体はやや頼りなげで、ネクタイもしてないのに紺色のYシャツをキッカリ第一ボタンまでしめ切っている姿は、几帳面なのか神経質なのか判断に迷う。耳の上で切り揃えられた髪は緩いパーマがかかっており、ヘアスタイルだけ見れば韓流スターのようだが、長い前髪がダサい黒縁眼鏡を完全に覆っていて、モッサリとした印象が漂っている。  尖った顎と、形のいい唇から想像して、おそらくそれなりに整った顔立ちなんだろうけれど、老犬みたいな雰囲気が医者というハイスペック感を台無しにしていて残念な感じだ。けれど柔らかい話し方とビオラの音色にも似た声音は心地よく胸に響き、自然と気持ちを和ませた。うんうんと頷く仕草は穏やかで、時々「わかります」「それは辛かったですね」と絶妙なタイミングで挟んでくる相槌も、決して押しつけがましくなく、寄り添ってもらっているという安心感を与えてくれる。  心の病を扱う医師は皆こうなのか、見た目は地味で、鼻先から上は前髪に隠れたモっサイ風貌であっても、彼の大らかな空気は頼もしかった。一つ一つの言葉も力強く、明確で、崩れ落ちそうだった心をしっかりと受け止めてくれた。気づけば脳にこびり付いていた嫌な記憶は洗い落とされていた。心に残された元彼との苦い思い出も通院するうちに生々しさが薄れ、日を追うごとに現実離れしてゆく。 「先生から頂いたお薬のおかげで、何とか朝まで眠れるようになりました。夜中に目覚めることもないです」
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