ジレンマ

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 人生初の紅茶酒は、炭酸が爽やかで飲み口もすっきりしていた。これはクセになりそうだ。せっせとサラダを取り分けている花梨が、彩り良く盛り付けた小皿を差し出してくる。慎は軽く会釈しながら受け取った。 「ありがとうございます。紅茶のお酒、美味しいですね。どんな料理にも合うと思います」 「でしょう? 紅茶がベースなら、オレンジやレモンの他にハーブとか生クリームを使ったカクテルも美味しいと思うんですよね。次はオレンジティーにしてみよっと」  楽しそうにメニューを見ている花梨の無邪気な姿は、コンサート帰りに食事をした時とは違って自然体だった。これが彼女の素なんだろう。仕事熱心で我慢強い一方、傷つきやすい脆さもある花梨が、過去に悩まされることなく日常生活を送れるように支えてやりたい―――そう思う自分の気持ちを、慎は心の底に深く沈めた。  彼女は患者で自分は主治医。心の傷が膿んで眠れなくなった原因を取り除くのが仕事で、支えるのは彼女が選ぶ次の恋人の役目だ。  まるで、高価で手に入らない物を店頭で眺めているような気分だった。高嶺の花という言葉そのものが、自分の為に用意されたんじゃないかと思う程にシックリくる。花梨がこうして食事や飲みに誘ってくるのは、安心感のある相手を欲しているからだ。  同じように素の自分をさらけ出して付き合える恋人ができれば、医者は必要ない。医者とは近くて遠い存在。どこか傷めば近くで一緒に完治を目指し、治ればもう関りがない。患者と医者の間には、どこまでも距離がある。  わかっていながら、それでも医者という肩書にすがってしまう。こうして共に過ごす時間を幸せだと感じてしまう。なんて切なく惨めなことだろう。花梨はただ、気を使わず、背伸びする必要もなく、元彼から受けた傷ごと自分を理解してくれる相手が欲しいだけなのに。 「……さっきの質問ですけど」  あくまで良い主治医を演じながら、慎は途切れた話の先を続けた。 「僕自身に何か崇高な志があったわけじゃないんです。うちは代々医者の家系でして、祖父も父親も医者なので、必然的に僕も同じ道を辿った感じです」  花梨の大きな瞳が、パっと見開いた。 「代々お医者さんなんですかっ、凄い! 一子相伝って感じですね!」 「いや、武術じゃないので親から継承したわけじゃないんですが……」 「でも背中を見て、同じ道を目指したってことでしょう?」 「目指した、というより許されなかったという方が正しいかな」  アルコールの所為ではない胸のムカつきに、顔をしかめそうになるのを必死にこらえて、慎は無理やり笑顔を作り上げた。 「住職の息子と同じ境遇ですよ。僕の将来に医者以外の職業選択はありませんでした。父に逆らって心療内科を専攻したのは、かなり遅い反抗期だったんだと思います。父は僕に失望したようで、西園家の名誉を汚したと今でも怒ってますよ」  難しそうな顔で、花梨は首を傾げている。 「立派に仕事をしている先生になんで失望するんですか? 引きこもりのニートだっていうなら、お父さんが怒るのもわかりますけど」  いっそニートにでもなった方が、父にとっては切り捨てやすくて都合が良かったろう。父はそういう人だ。同じ血が自分に流れているかと思うと時々ゾッとする。  内心の嫌悪感を紅茶のソーダ割で押し流して、慎はそっとグラスをコースターに置いた。 「父は一人息子の僕を自分と同じ外科医にしたかったんですよ。祖父は脳外科で、父は心臓外科。バリバリの外科至上主義者ですからね。心療内科なんていう病巣が目に見えない分野は、医学と認めない人です。医者はメスで切ってなんぼの古臭い考え方なんですよ」 「お医者さんの世界も大変ですね……」  しみじみと呟いて、花梨は納得したように頷いた。同時に、自分が露骨に親批判をしまったことに気づき、慎は青ざめた。自分を頼りにしている人に親子間の不和を愚痴ってしまった。 「あっ、すみませんっ。僕の家庭事情なんて話してしまってっ」 「どうして謝るんですか?」  気を使ってくれたのか、花梨は薄く微笑みながら事も無げに言った。 「私は嬉しかったですよ、先生の話を聞けて。いつも先生は聞き役で、自分の事はあまりしゃべらないでしょう? だから、ちょっとでも先生を知ることができて嬉しかったです」  心が泡立つような歓喜に、唇が震えた。気の利いた社交辞令だとわかっていても、胸が熱くなる。 「――カリン」  若い女性の声が降ってきたのはその時だった。 「いらっしゃい、久しぶりだね」  ふと見ると、細身の美女が傍らにいた。つい寸前まで演奏していたピアニストだ。 「んもぅ、やっと来てくれたぁ」 「ユズゥ、久しぶり! ごめんね、ずっと連絡できなくて」 「ほんと、カリンってば彼氏ができてからあたしに冷たいんだから。それだけ、こちらの彼氏さんに夢中なんでしょうけど」  長い髪を肩から払ったピアニストの視線が流れてくる。どうやら親友の恋人だと勘違いしているみたいだ。すかさず花梨が言った。 「違うのっ、こちらはお医者さんっ」 「えっ、医者っ?」  上からじっと見つめたまま、ピアニストはポカンとしている。 「先生、ごめんなさい。私まだ健悟のことをユズに話してなくてっ」 「僕はいいんですが……」  同僚や先輩と紹介するならまだしも、医者と言われたら誰でも混乱するだろう。実際、ピアニストが変な顔で見下ろしている。普通なら自己紹介するところだが、花梨が心療内科に通院している事がバレてしまうので、どうするべきか迷った。 「お医者さんってどういうこと?」  友人が当然の質問をした。立場が逆なら、同じ疑問をぶつけたと思う。気心知れた仲だからか、花梨は特に慌てもしなかった。 「その辺の事情は今度ゆっくり話すね」 「カリン、どこか悪いの?」 「体は健康だよ。先生は……その……心療内科の先生なの」  親友の整った美貌がピクっと強張った。事情を悟ったらしい。小さく頷きながら沈黙している。 「ちょっと不眠症になっちゃってさ、それで通院してるんだね」 「そう、大変だね……じゃあ、こちらの先生は主治医なわけだ?」 「うん、クラシック仲間でもあるけどね」  花梨の笑顔から視線を滑らせた友人は、薄い笑顔を浮かべると軽く会釈してきた。背筋を伸ばして、丁寧に名乗った。
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