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「いらっしゃいませ。カリンの友人のユズハです」
悪戯っぽい笑顔に向かって、慎は一礼した。
「はじめまして、西園です。今夜は花梨さんに招待して頂きました」
「西園さん……?」
それまでにこやかに振る舞っていた友人から、笑顔が滑り落ちた。突然不具合を起こしてフリーズしたパソコンのように黙している。頭上から注がれる視線が鋭く感じるのは気のせいだろうか。アイシャドーで煌めく一重の瞳が、訝しそうに揺れている。
「あの、何か?」
心地の悪さを感じて、思わず慎はたずねた。ハっとしたように眉を上げた友人が、無礼な振る舞いを詫びてくる。
「ごめんなさいっ、知り合いに雰囲気が似ていたものですからっ……大変失礼しました。それじゃ、どうぞごゆっくり。カリン、またね」
互いに手を振り合い、別れた友人から視線を戻した花梨が、嬉しそうに微笑みかけてきた。
「ユズって美人でしょう? 私の自慢の親友なんです」
確かに彼女は美人だが、肩を竦めて親友自慢する花梨のあどけない笑顔の方が美しいと思った。他者の良い所を認め、敬うことのできる素直さは、友人が身に着けていた金のネックレスよりも煌びやかで美しい。
花梨はそういう人だ。誰かを妬むわけでも、自分を卑下するのでもない。ありのままの自分に価値があることをちゃんと理解している。だからこそ、元彼からの抑圧にも潰されなかったのだろう。
傷つけられても折れない花梨の芯の強さに、自分は惹かれたのかもしれない―――対面で楽しそうに親友との思い出を語る姿を見ながら、慎は背中を引っ掻かれるようなくすぐったさを感じた。親友と過ごした中学時代の話を嬉々として教える花梨の無邪気な様子は、彼女から完全に信頼を得られた証だ。心地よい優越感に胸が温められていく。
花梨は色んな話を聞かせてくれた。大学を卒業したらイギリスに行こうとしていたこと。英語の壁に挫折して留学を諦め輸入会社に就職したこと。企画部の仕事は充実していて楽しいこと。
知識も豊富だった。チーズはスイス産よりフランス産の方がまろやかで口触りが良いとか、スペイン産の生ハムは塩気が強めでワインやブランデーに合うなど、仕事熱心な性格が表れていた。
ハープのように軽やかな声音も、髪を耳にかける仕草も、全てが魅力的だった。元彼が束縛した気持ちもわかる。行動は異常だが、男なら皆、こんな人に愛されたいと思うはずだ。その愛情が自分にだけ向けられる特別なものだと、他者を排除して独り占めしたくなる気持ちも理解できる。
優雅なピアノの音色が漂う落ち着いた空間の中で、爽やかな紅茶の酒を味わいながら、花梨の話を聞いているのは本当に楽しかった。
それがいけなかった。
充実した時間に意識が浸っていたせいで、とんでもないミスを犯していたことに、慎は店員が食事のラストオーダーを取りに来るまで気づかなかった。
「お客様、他に食べ物のご注文はございませんか?」
「先生、デザート食べます? この苺パフェなんか美味しそうですよ」
ほろ酔いの花梨がメニューを指さしながら微笑んだ瞬間、脳が震撼した。咄嗟に慎は腕時計を見た。午後11時02分。息が詰まった。背筋が凍りついて、一瞬視界が歪む。時計は、本来なら自宅に着いてなければいけない時刻を示していた。もう一刻の猶予もない。反射的に立ち上がりそうなったが、寸前のところで慎は思いとどまった。不思議そうな顔をしている花梨に、内心の焦りを悟られてはマズイ。
「本当だ、美味しそうですね。でも今夜は遅いので遠慮しておきます。地下鉄の時間もありますので、そろそろ店を出ましょう」
「え? お店を出る?」
花梨はキョトンとしていた。状況が飲み込めない様子で、唖然としながら見つめている。慎は努めて冷静に、落ち着いて会計伝票を店員に渡した。
ここで帰されるとは思わなかったのだろう。花梨は放心したようにレジに向かう店員の背中を眺めている。本当はもっと一緒に過ごしたかった。でも時間がない。タイムリミットは深夜0時。慎は急き立てられるように腰を上げた。
もう何年もあれは出ていない。
1日7時間の睡眠時間を確保するため、どんなに遅くても0時までには就寝して生体リズムを体に刻み込んできたのだ。多少時間が乱れても大きな影響はないと思うが、しかし、油断はできない。二度とあんな過ちを犯さないためにも。
レジで精算を済ませた後、地下鉄の大通り駅まで歩いた。「楽しくて時間を忘れてました」と正直に打ち明けたら、花梨が「私もです」と恥ずかしげに笑った。次に会うのは2週間後。そう決めたのは自分なのに、14日もこの笑顔を見られないのかと思うと残念な気持ちになる。
あれさえなければ、時間に煩わされることなく夜を過ごせるのに。いっそ、打ち明けられたらどんなに心が救われるか―――だがそれは、自分が主治医であるうちは許されない。花梨の不眠症を完治させるまでは、頼り甲斐のある立派な心療内科医でいなければならないのだ。
地下に降りて大通駅の改札に向かい、先日クラシックコンサートへ行った帰りと同じように、途中で花梨と別れた。彼女は東豊線で、自分は東西線。別れ際、「今日は私に付き合って頂いて、ありがとうございました。次にお誘いする時は前もって先生の都合をお聞きしますね」と花梨が急な誘いを詫びてきた。次があるという事実に心が躍ったが、冷静に「いつでも空いてますので」と返し、花梨の背中が地下に消えるまで見送ってから、早足で東西線のホームに降りた。
タイミングよく入ってきた地下鉄に飛び乗り、一息つく。最終の3本前ということもあり、結構混んでいた。円山駅で降りて地上に出た後は、タクシーで自宅まで帰るのが常套手段。家に着いた頃には、時計の針は11時40分を指していた。ギリギリだが、なんとか間に合った。ジャケットをソファに放り投げると、慎はそのまま崩れるように倒れ込んだ。
次回の受診は2週間後。その間、花梨の睡眠に問題がなければ薬を止めて更に2週間おき、薬の服用なしで眠れていればそこで終了。彼女がここを訪れることはもうない。
花梨が健康的な日常を送れるのは喜ばしいことなのに、一方で治療の終わりを寂しく思う弱い自分がいる。完治を告げ、もう来院の必要はないと言った後も、彼女はクラシック仲間でいてくれるだろうか。
ぼんやりと考えながらシャワーを浴び、着替えを済ませて2階の寝室に上がった。10帖の部屋にはベットとスタンドの他に、机代わりのテーブルとノートパソコンがあるだけ。殺風景な部屋だ。スマホの目覚まし機能をセットして、眼鏡を外す。どちらもすぐに手が届くようライト台に置いて、リモコンで部屋の電気を切った。
一瞬にして、部屋が闇に沈んだ。
枕に添えた頭の熱が、すぅっと引いていく。何事もなく眠ったままでいられるようにと慎は願った。
部屋の鍵はかけた。
もちろん戸締りも抜かりない。
ドアにはチェーンロックも掛けてある。
無意味だとわかっていても、何もせずにはいられない。
慎はゆっくりと目を閉じた。
このまま、朝まで覚めないことを祈りながら。
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