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真夜中のメッセージ
起床の音楽が鼓膜に刺さる。心地の良いまどろみの中で、起きろと叫ぶスマホを黙らせようと、花梨は枕元を探った。昨夜、ユズの演奏を聴きながら慎と過ごした楽しい記憶が、冴えない朝に塗りつぶされる。
眠気の誘惑を断ち切って、スマホの目覚まし機能をオフにしたその時だった。
「……ん?」
メールが届いているのに気づいた。
全部で4通。何も考えず、ほとんど反射的に花梨はメールを開いた。画面に白い下地が広がる。差出人の所には、自分のアドレスの後ろに英数字が並ぶ奇妙なメアドが表示されていた。
着信は昨夜の2時47分―――この前と同じだ。
先日、真夜中に届いた不審なメールを思い出したが遅かった。既にメールは開封してしまっていた。
> 久しぶりに親友と会った感想は?
「えッ……!?」
花梨は飛び起きた。
寝惚けていた脳が一気に目覚める。
一体なに!?
背筋がザワついた。
なぜ久しぶりに会ったと知ってるの!?
体の芯から冷たい痺れが指先まで広がってゆく。ありえない。柚羽が勤めるバーに慎と出掛けることは、他の誰にも喋っていないのだ。そもそも柚羽が親友だとなぜ知ってるんだろうか。
まるでこちらの動きを見ていたかのようなメッセージに寒気がした。恐怖心で完全に冷静さを失い、半ば急き立てられるようにして花梨は次々と受診メッセージを開けていった。
> あの男に惚れてるみたいだな。
> でも、そう思い込んでるだけじゃないのか?
> あいつ、お前の好みじゃないだろ
呼吸が引きつった。
花梨は慄然と画面を凝視した。
"あいつ"とは慎のことだろうか。
ひょっとして、誰かに監視されている!?
けれど誰がそんなことを……?
メッセージは、一方的にそれだけ告げて終わっていた。不特定多数を狙った単なる迷惑メールかと思っていたが、違う。これは明らかに意図を持って送られている。
「まさかっ……!?」
ふと浮かんだ嫌がらせ犯の顔を、花梨は首を振って追い払った。いくらなんでも、健悟はここまで悪質なことをする人じゃない。姑息な技を使い身元を隠して深夜に嫌がらせメールを送るような、そこまで卑劣な人ではないと信じたかった。
一度は好きになった人を信じたい気持ちとは裏腹に、腹立たしさが込み上げてくる。健悟ならば全てのつじつまが合うのに、なぜ自分は彼が犯人であることを否定しようとするのか。庇う程の愛情も残ってないが、それでも心のどこかで健悟を信じようとする自分がいる。
目に見えない異様な気配が、闇の奥からゆっくり忍び寄っているのを感じた。怖い。自分に向けられる悪意が恐ろしかった。助けを求めるように電話をかけようとしたところで、花梨は思いとどまった。震える指を拳の中に戻して、恐怖心ごと強く握りしめる。ダメ。慎には迷惑をかけたくない。ただでさえ無理を言って外出に付き合ってもらっているのだ、この上迷惑メールの悩みまで相談したら、重たい患者だと嫌われるかもしれない。
忘れよう。
頭の中で冷静な声が聞こえた。
ちょっと過敏になっているだけだ。
騒ぎ立てるほどのことでもない。
無視していれば自然とおさまるだろう。
消去してしまえば、不安も消える。
「大丈夫……大丈夫……」
自分にそう言い聞かせながら、花梨はメッセージを全て消した。
仕事に没頭したおかげで、今朝の不快な出来事は記憶から削げ落ちた。
昼休みを迎えた頃には気分も晴れて、同僚との青空ランチを普通に楽しむ余裕も生まれていた。札幌の街並みが見えるフェンス際のベンチに座り、コンビニのサンドイッチを食べながら、気味の悪いメールのことを同僚の美央に相談した。
相手は奇妙なメアドを使う変態で、こちらの行動を監視しているようなメッセージを真夜中に送ってくる件について、美央は熱心に聞いてくれていたが、慎には相談しづらいと話した辺りから雲行きが怪しくなった。昨夜、2人で出かけたことを白状してからは、完全にメールの件は話題から弾き出されてしまっている。
「それってもう好きってことじゃない?」
横目でこちらを見ながら、美央があきれ顔で言った。上司を除けば、社内で唯一内情を知っている友人は怪訝に眉をひそめている。
「その先生と会うのが楽しみで、自分からご飯に誘い、親友をダシにしてバーにも行った……これで"クラシック仲間"とか言われてもねぇ。下心しか感じないわ」
「変な言い方しないでよっ。そんなんじゃないからっ」
ペットボトルを握り締めて、花梨は必死に抗議した。昨日トラウマだった生演奏のバーに慎が付き合ってくれたことを話した途端、美央から鋭いツッコミを入れられた。いつもなら、ちゃんと理由を並べて反論できるのに、今はなぜか言葉に詰まる。美央の指摘が正しかったからかもしれない。
「私はただ、先生を頼りにしてるだけ。先生といると安心できるっていうか、癒されるっていうか、一緒にいると気持ちが落ち着くの。先生はいつも穏やかで、優しいから……」
「ねぇ花梨、別にいいんじゃないの? 恋しても」
美央が薄く笑った。
「松浦さんとの付き合いなんて虐待みたいなもんだったんだし、今度こそちゃんと恋愛したら?」
「恋愛って……先生にとって私は患者の中の1人だもん」
「そうかなぁ」
空を見上げて、美央は流れる雲をぼんやり眺めている。不意に視線を合わせてくると、意地悪い笑顔を浮かべた。
「あたしは先生の方も満更じゃないと思うけどな。だって普通なら断るでしょ。勘違いされたら困るもん。それをコンサートに誘ってきたりバーに付き合ってくれるのは、先生も花梨に好意を持ってるからだよ。てかさ、まずは花梨自身がちゃんと自分の気持ちを整理しなよ」
「気持ちの整理……かぁ」
言われてみれば、長いこと自分の気持ちと向き合ってこなかったように思う。
健悟が嫌いかと言えば、決してそうじゃない。確かに自己中でワガママな人だったけれど、でも健悟はちゃんと愛してもくれた。
風邪で会社を休んだ時には早退して看病に来てくれたし、残業が続いた時はかなりフォローもしてもらった。週末は車で海や買い物に誘ってくれて、雑誌で美味しいスイーツ店を見つけたらどこまでも買いに行ってくれた。
結末だけみれば歪んだ愛情の末の破局であり、他者からみたら虐待と同じだろうが、お互いの間には確かな恋愛感情が存在していたのだ。もっとも付き合い始めて1ヶ月後には、束縛に疲れ恋愛感情も枯れてしまったが。
「花梨はどうなの? 先生のこと好きなんでしょ?」
「……尊敬してる」
「答えになってなーい」
「だからっ、先生のことは好きだけど恋愛とかじゃなくてっ」
「1日に先生のこと何回考える?」
「な、何回って……」
数えたこともないし、ふとした拍子に慎を思い出す程度なので、なんて言えばいいのか返事に困った。
「紅茶買う時とか、銀縁の眼鏡かけてる人とすれ違った時とか、先生はどうしてるかなぁって思ったりするぐらいだよ」
「じゃあ、松浦さんを思い出すことは?」
「ない」
即答を聞いて美央がケラケラ笑った。
「ほぉら、もう先生のことで頭がいっぱいじゃない。だいたい、何とも思ってない人のことを"どうしてるかなぁ"って考えたりしないよ」
同感だった。ペットボトルの中の冷たい紅茶を揺らしながら、花梨は溜息をついた。
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