真夜中のメッセージ

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 翌日の朝は、久しぶりの頭痛に見舞われた。  寝不足でどんより頭が重く、地下鉄の揺れでウトウトしてしまい危うく乗り過ごすところだった。仕事は本格的に忙しくなっていた。夏本番を前に、会社の直営店で様々な販売促進イベントを行うことになっていて、その為の準備が立て込んでいたのだ。  花梨が提案した『大人女子の紅茶カクテルフェア』は、健康志向な大人の女性をターゲットに絞り、料理にもスイーツにも合う紅茶を活用した斬新な試みとして高い評価を受けた。合格したからには、必ず企画を成功させなければならない。直営店の中でも一番客入りが良いススキノ店を任され、おかげで業務量が爆発的に増えた。  初めて通った自分の企画を、どうしても成功させたい。その一心で、連日準備に明け暮れた。実施店舗との打ち合わせ、雑誌社への宣伝、イベント計画書の作成など、毎日夜遅くまで残業した。休日も返上して仕事に没頭したが、その間もメールが止んだわけではなかった。  夜中に何度も起こされる。得体の知れない誰かの気配に、脳が過敏に反応してしまう。いつしか熟睡できなくなっていて、朝起きるとひどい疲労感が残っていた。仕事の疲れだけじゃない。執拗な"誰か"からの悪意が、心身を蝕んでいた。いっそ廃人になれたらどれだけ楽だろう。  思考がフリーズしたままマウスを動かしていたら、後ろから声をかけられた。 「――米里、大丈夫?」 「え?」  見れば、資料を持ってきた男性社員が心配そうな顔をしていた。この岩倉隼人(いわくら はやと)は同期で、健悟が最も関わることを嫌がっていた人。筋肉質でしなやかな長身と短髪が清潔な印象を与える好青年で、いかにもスポーツマンという爽やかさと気さくな人柄が、健悟は気に入らなかったらしい。いつも口癖のように『岩倉は絶対にお前に気がある』と文句を言っていた。 「オレも手伝うよ。ずっと残業続きだろ?」 「あぁ、うん……でも平気。店長との打ち合わせ用資料はもうすぐできるし、あとはポスターサンプルをまとめて、食品部と利益率を……」 「1人で頑張るなって」  遮るように言うと、岩倉はちょっと照れくさそうに苦笑した。 「少しはオレを頼ってくれよ」 「ありがとう……けど、岩倉くんだって自分の企画で忙しいでしょう」 「オレの方は来月だから余裕あるんだ。それに松浦さんもいないから、堂々と手伝えるし。あの人って確かに仕事はできるけど、仲間意識を軽視してただろ?」  健悟と付き合っていたことは、上司と美央しか知らない。目の前に元カノがいるとも知らず、岩倉は思う存分不満を吐き出している。 「松浦さんは『自分の仕事は自分で』みたいなスタンスだったけど、オレは皆で協力し合った方が効率がいいと思ってたよ。前に米里がやってたリサーチを手伝ったら、松浦さんから"人の成長を妨げるな"ってスゲェ叱られてさぁ。今でも納得いかないよ」  その件なら知ってる。エクセルの使い方に不慣れで困っていたあの時、岩倉が手伝ってくれてどうにか難を乗り越えたが、2人並んでパソコンの操作をしていた所を見た健悟が、すぐさまラインで猛抗議してきた。女子社員からモテる岩倉が、自分の物に近づくことが許せなかったようで、困ったら俺を頼れ、岩倉と口をきくな、嫌っていると思わせ距離を取れと、めちゃくちゃな指示を送ってきたものだ。  せっかく忘れていたのに、苦々しい記憶が甦ってしまった。   「ありがとう、岩倉くん」  礼を言って、花梨は嫌な記憶ごと会話を断ち切るようにパソコンと向き合った。 「けど全部自分で責任を持ってやりたいの。だから気持ちだけもらっておくね。資料助かったわ、どうもね」  申し出はありがたかったけれど、人に手伝ってもらおうとは思わない。岩倉は何か言いたげだったが、相手が望んでいないと悟ったようであっさり引き下がった。 「そう……本当に大丈夫か?」 「うん。エクセルの使い方も慣れたしね」 「ムリしないで何でも言えよ? それと、今日は早く帰って寝ろよな」 「頑張るぅ~!」  こちらを気にしながらも、岩倉は自分のデスクに戻っていった。健悟の言うことは常に被害妄想的で無茶苦茶だったが、"岩倉はお前に気がある"という部分は当たっていた。  健悟と付き合い始めた頃から、岩倉が単なる同僚の意識を越えた感情をこちらに寄せているのは花梨も気づいていた。岩倉は仕事もできるし、仲間からの信頼も厚い。容姿も人柄も十分に魅力的な人だ。  けれど、求めているのは岩倉の助けじゃない。今は将来有望な同期からの好意より、年寄りくさい趣味しかなく見た目も冴えない主治医の助けが欲しかった。  前髪の奥から見つめられたい。  優しく微笑みかけてほしい。  温かいあの雰囲気に包まれたい。  それだけで、乾いた心が満たされる。  途方に暮れるぐらい慎に会いたかった。  次にクリニックへ行くまでの1週間が、1年先の事みたいに長く感じる。精神力も体力も限界だったが、それでも慎に頼るという選択肢はなかった。再び不眠になったと告げれば、その原因も伝えなきゃならない。あのメールの件を慎に相談するつもりはなかった。病のことならまだしも、個人的な悩みをクリニックに持ち込むわけにはいかない。  とはいえ、不愉快なメッセージは、数日おきに送りつけられていた。  真夜中に突如としてスマホが青白く光り、疲れた脳を揺さぶり起こす。体は疲労困憊していてまともに目も開けられないのに、瞼をブルーライトが撫でた途端、過剰反応ともいえるぐらい神経が敏感に反応するのだ。うとうとしてはハっと目が覚め、また少し眠っては意識だけがぼんやり覚醒する。
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