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このスパイラルを断ち切る為に、花梨は毎日薬を飲んだ。当然、薬はあっという間に底をついた。当たり前だ。1日おきに2週間、計7回分しか処方されてないのだから、後半は自力で不眠と戦わなければならなかった。
朝は這うようにしてベットから出た後、熱いシャワーで強引に意識を覚醒させる。コンシーラーで目の下のクマを隠し、入念なメイクをして出勤してからは、昼まで山積みの仕事をひたすらこなす。昼休みはデスクの前でカロリーメイトをかじり、午後からは外勤。直営店の店長やスタッフと打ち合わせをしてから本社に戻った後も遅くまで残業して、地下鉄の最終でギリギリ家に帰る毎日だった。
体も神経も休まらないまま後半の1週間を乗り切り、ようやく迎えたクリニックの受診日。
この日の為に無理して仕事を進め、定時退勤して訪れたクリニックで、受付の事務員は顔を見るなり「大丈夫ですかっ?」と慌てて声をかけてきた。メイクは直してきたが、疲労が顔に出ていたらしい。カウンターの奥から出てきた事務員に背中を押され、診察室の中に放り込まれた。
「先生っ、米里さんがいらしたんですけどっ」
普段はおっとりしている事務員の切迫した声に、壁際でパソコンと向き合っていた慎が振り返った。一体どれだけヒドイ顔をしてるんだろう、驚いたように立ち上がった慎が駆け寄ってきた。
「花梨さんっ、どうされたんですかっ!?」
カリンさん―――
プライベートじゃないのに、慎が名前で呼んでくれた。
たったこれだけのことで、胸が熱く震えた。ずっと自分を支えてきた緊張の糸が切れ、壊れる寸前の心を包み隠す壁がホロホロと崩れ落ちてゆく。なぜだろう。いつもはちゃんと笑顔を作れるのに。無理やり笑って、明るい声を出して、"元気です"と上手にウソをつけるのに。
どうして涙が止まらないんだろう。
心配そうに覗き込んできた慎の顔が間近に迫った途端、心の中で何かが弾けた。とめどなく目から涙があふれてくる。
「くっ……うぅ……」
「花梨さんっ、大丈夫ですかっ?」
花梨は俯きながら嗚咽を噛み砕いた。みっともない。いい年をして泣くなんて。大丈夫です、そう言いたいのに声が喉に詰まって出てこなかった。この2週間、怒涛にように押し寄せた仕事と真夜中のメールに、押し潰されそうになる自分を奮い立たせてきた。何度も慎に頼りたくなったけれど、ここで頑張れなきゃ二度と自力で立ち直ることができなくなると思い、必死に頑張った。
しかし結局ダメだった。この程度のことでは負けないと強がってきた虚勢も、慎の顔を見た瞬間に壊れてしまった。慎の柔らかい空気が、傷んだ心を包み込んでくる。優しい声音が心地よく鼓膜に響き、疲れて干乾びた心が一気に潤ってくる。
「うっ……先生……」
安心したら膝の力が抜けて、グラリとよろけた。
「あっ、花梨さんっ!?」
咄嗟に慎が支えてくれなかったら、床に倒れていただろう。引き寄せられて、慎の胸にすっぽりと収まった途端、力が抜けてしまった。Yシャツから香る素朴な柔軟剤の匂いと耳朶を掠める慎の声が、心の底に沈んでいた不安を洗い流していく。
「ひとりで頑張ってたんですね」
温かい掌が、よしよしと無防備な背中を撫でてくる。
「もう我慢しなくていいですよ……大丈夫、後は僕が引き受けますから、花梨さんはゆっくり休むことだけ考えて下さい」
「先生っ……ぅ、んっ……先生っ……!」
食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れた。無意識のうちに花梨は慎の体にすがりついていた。こうして体を寄せていると、お互いの体内で脈打つ心臓の鼓動が重なり、共鳴しているみたいに感じる。驚く程、抱きしめる慎の腕は力強かった。孤独感も、恐怖心も、全て砕いて吸い取ってしまうような包容力が、弱った心身を包み込んでくれる。
「何かあったら僕に連絡してと言ったのに、こんなにボロボロになるまで抱え込んで……そんなに僕は頼りないですか?」
「すみませっ……私っ、先生に迷惑をかけたくなくてっ……だからっ」
「迷惑だなんて思いません」
慎が寂しそうに笑った。
「そんなふうに思わないで下さい。むしろ、ここまで心がやつれてしまう前に僕を頼って欲しかったな」
「何度も連絡しようと思いました……でも」
花梨は口ごもりながら打ち明けた。
「悩みなんて誰にでもあるのに、些細なことで眠れなくなって相談なんかしたら、重くて面倒な患者だと嫌われるかもしれない……そう思うと怖かったんです……」
「面倒だなんて思ったりしませんよ。僕が花梨さんを嫌うわけないじゃありませんか。いつだって花梨さんの力になりたいと思ってます」
抱き締める力がほんの少し強くなった。背中を撫でる手は相変わらず優しいけれど、強張った指先から葛藤しているような震えが伝わってくる。慎は開けっ放しのドアの手前から、受付にいる事務員に向かって叫んだ。
「紀美子さん」
「はぁい」
「今日はこれで上がって下さい。後は僕がやりますから」
「けど先生、一日の精算と集計がまだ終わってなくて――」
「それも僕がします」
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