真夜中のメッセージ

5/9
前へ
/42ページ
次へ
 口調は柔らかいが、有無を言わさぬ硬い響きがあった。こういうやり取は日常的に交わされているようで、事務員は診察室に顔を出すことなく声だけで応じた。 「それじゃ、パソコンはこのままにしておきますから、あとはお願いしまぁす。ではお先に失礼しますねぇ」 「お疲れ様でした」  事務員がパタパタと動き回り、帰り支度をしてクリニックを出て行く音を、花梨はぼんやりと慎の腕の中で聞いていた。パタンとドアが閉まり、穏やかな静寂が沈む。慎と2人きりになったと気づいたところで、脱力していた体に緊張感が戻った。鈍っていた思考力が働き始めると、困惑と気恥ずかしさで顔が火照る。  慎の優しさに甘えて抱きついてしまった。まるで親に会えた迷子の子供みたい。しかも涙がYシャツに染みてしまっている。どうしよう。戸惑っていると、腕を緩めた慎が頭上から語り掛けてきた。 「ここでちょっと待ってて下さいね」 「先生ごめんなさいっ、私っ、先生の服を汚してしまってっ……」 「いいんですよ、すぐ乾きますから」  にこっと微笑むと、慎はおもむろにベランダへ歩みより、ドアを閉めて施錠した。カーテンを引き、壁際のノートパソコンをシャットダウンすると、診察室を出て待合所の窓を次々に閉めてゆく。花梨は呆然とその場に佇んだまま、物音だけを聞いていた。慎はクリニックを閉めたようだった。全ての出入口を施錠し、室内を照らしていた明かりを切って戻ってくる。 「お待たせしました。こちらにどうぞ」 「あの、先生……診察は……?」  手を取り、受付の奥へと引っ張る慎の背中に向けて、花梨はおずおずと声をかけた。慎は大丈夫というだけで質問には答えなかった。待合室の受付カウンターには、書類やパソコンがそのままになっている。だが慎はそれらに見向きもせず、受付の横にあるstaff onlyのドアを開けた。  ここから自宅に通じているらしい。中には2帖ほどの空間があり、奥にまたドアがあった。靴を脱いで一段高い床に上がり、奥のドアを開けた慎に促され、花梨もあたふたと後に続いた。  深いチャコールの艶やかな木目の床が視界に入る。クリニックの出入口は自宅玄関の横に通じていて、かつては外国人牧師の住宅だった名残りなのか、レトロなシャンデリアが下がる吹き抜けの玄関ホールには、木製の十字架が壁に飾られている。玄関と居住スペースを仕切るガラス戸を開けると、壁際に階段を含めた広いリビングが広がっていた。  横一列に並ぶ細長い窓から、幾筋もの西日が差し込み、室内を淡いオレンジ色に染めている。  L字型のソファと木製のテーブルが中央に置かれ、壁際には古典的な洋風の質感に合わない液晶テレビがポツンとあった。カウンターキッチンの前に置かれた4人掛けのテーブルも、棚も、電化製品を除けば全て年代物の家具で揃えられている。今は使われていない暖炉の上には、異国の風景画が掛けられていた。 「座って下さい。今、お茶淹れてきますから」  改まって慎がソファをすすめてきた。花梨は別荘みたいな室内をキョロキョロ眺めながら静かに座った。 「家具は前の住人が残していったものなんですよ」  キッチンに向かいながら慎が言う。 「ここは以前、牧師さんが住んでたんですけど、帰国する時に全部置いていったらしいんです。処分してもらう予定だったんですが、品質の良い物だから手入れすれば使えると言われたので、綺麗にして再利用してるんですよ」 「そうなんですか……」  確かに少し傷んではいるけれど、内装の質感に調和した家具は、どれも時を重ねた分の趣が感じられた。キッチンも日本の作りとは違い、だだっ広くてコ字型にコンロやシンクが配置されている。中央の作業台はレンガ造りで、お盆の上に乗ったティーカップからは、注がれる紅茶がふわふわと湯気を上げていた。 「花梨さんに頂いたロンネフェルトのダージリンで、ミルクティーにしてみました。少し砂糖が入ってます。甘みは気分を落ち着かせる効果がありますので、試してみて下さい」  お盆を持って戻ってきた慎は、丁寧にティーカップをテーブルに置くと、診察の時とは違い隣に座った。紅茶の甘やかな香りと心地の良い存在感のおかげで、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。 「どうぞ」 「頂きます……」  花梨はそっとティーカップに口づけた。舌の上に広がる茶葉の風味とミルクのまろやかな甘味が、緊張していた体をほぐしてゆく。慎の言った通り、紅茶には癒しの作用があるらしい。 「それで、ひどい寝不足の原因は何ですか?」  ほっと息をついたのを見計らったようなタイミングで、慎が問いかけてきた。もう我慢しなくていいのだと思うと、自然に喉から声が流れた。 「この前話した私の紅茶リキュール企画が、新しいイベントとして採用されたんです」 「それは凄い、良かったですね」 「ええ、でもその分仕事が増えてとても忙しい毎日でした」 「けど、仕事が原因じゃありませんよね?」  花梨は溜息をついた。カップの中で揺れるミルクティーを眺めながら、ためらいがちに告げた。 「実は……真夜中にメールが来るんです……」 「メール?」  眼鏡を完全に覆う前髪を揺らして、慎が首を傾げた。 「迷惑メールですか?」  花梨は頭を振った。不規則に送り付けられる不愉快なメッセージを思い出しながら、淡々と事実を伝えた。 「最初は私もそう思いました。でも違うんです。差出人はわかりませんが、短いメッセージが多い時で5通ぐらい来るんですけど、まるで私の行動を監視しているような内容なんです」 「監視っ?」  それまで冷静だった慎の声が上ずった。前髪の奥で、瞳が揺れ動いている気配が伝わってくる。 「つまり尾行されてるってことですかっ?」 「わかりません……でも私の行動を把握してるようなんです」  さすがの慎も返事に困っていた。重たい吐息が、微かな動揺で震えている。 「花梨さん、送り主に心当たりはありますか?」  あります―――そう答えることを、一瞬ためらわせた感情の正体は何だろう。健悟を庇うつもりなんてないのに、それでも心の片隅で、優しい一面を信じようとする気持ちがあったことに花梨自身が驚いた。 「花梨さん?」 「えっ? あぁ、すみません。心当たりは……あります」  乾いた声が漏れた。花梨は静かにティーカップをソーサーに戻した。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

43人が本棚に入れています
本棚に追加