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口元に笑みを浮かべながら、主治医はホっとしたように息をついた。
「それは良かった。一応、もう少しだけお薬を続けてみましょうか。別れた恋人が転勤したとはいえ、同じ会社ですから顔を合わせることもあると思います。気持ちが完全に落ち着くまで様子をみましょう」
「はい……」
花梨はもれそうになった溜息を咄嗟に飲み込み、笑顔で頷いた。入社当初は色々な男性社員に誘われ、大学のコンパに行くようなノリで飲み会に参加したが、3年経った今ならそれがいかに軽率な行動だったかよくわかる。
美人なタイプではないけれど、大きな瞳と小さな口が印象的な顔立ちは、今流行りのユルフワなヘアスタイル効果もあり、同期の中で花梨は目立つ存在だった。 制服のない会社なので服装は自由。ファッションには疎いから、雑誌を見ながら自分に合いそうなコーデを真似していたのもオシャレに見えたのか、声をかけてくる男性社員は多かった。今だって25歳の女盛り。本来なら結婚を考える年頃だけど、別れた彼氏のモラハラに精神を追い詰められて、心が疲れ切ってしまっている。
元彼の健悟は5歳上の先輩社員だった。面倒見が良く優しい人で、仕事のノウハウを一から教えてもらった。最初は同僚として、そのうち恋人として付き合うようになったが、考えてみるとその頃から既に異常性の片鱗が見えていたように思う。
付き合い始めてから少しずつ、健悟は会社で他の男性社員と話すことを嫌がるようになった。スマホもチェックしたがったし、拒むと浮気を疑った。そのうち女友達と出掛けるのも眉をひそめるようになり、最後は1人で買い物に行くことも禁止された。ラインやメールはすぐに返信しないと機嫌が悪く、男性社員と業務上の話をしているだけで精神的な浮気だと責められた。こっそりGPSアプリを入れられたのが決定打だった。健悟の異常な嫉妬と束縛に耐え切れなくなり、信頼できる直属の上司に相談した。
上司はすぐに対処してくれた。実は健悟には以前から転勤の話が持ち上がっており、昇進して旭川支社へ出向する事になっていたが、それを本人が拒んでいたという。結局、移動命令が出て健悟は転勤が決まった。別れ話をした時、束縛されて辛かったこと、浮気という言葉で責められ悲しかったこと、もう愛情がないことをはっきり伝えたけれど、健悟は最後までゴネていた。
おそらく、今も納得はしてない。少しほとぼりを冷まして、距離を置けば話す余地も生まれると考えて、一旦は別れを受け入れたような感じ。いずれにせよ、半年に渡る軟禁生活は終わった。自分でもよく我慢したと思う。
健悟は旭川支社へ行き、ようやく自由な生活を取り戻して間もなくだった。
夜、眠れなくなった。
布団に入りウトウトしながら浅い眠りが続くも、途中でハっと目が覚める。理由はない。物音がしたわけでもない。ただ、脳を弾かれたようにハっと目が覚めるのだ。酷い日には一晩に何度も、数十分おきにそんな症状が表れた。当然朝は頭が朦朧として、仕事も集中できない。
何とかしないと潰れてしまうと思い、同僚で友人でもある美央に相談したら、心療内科に行くよう勧められた。正直、精神を病んでいる人、というカテゴリーに入るのは嫌だったけれど、不眠が続くと本当に精神を病みそうで、思い切って受診した。
総合病院の中にも心療内科はある。でも、どうしても抵抗があり、ネットで苦労しながら探してやっと見つけたのが『にしぞのクリニック』だった。病院らしくないオシャレな外観。スタッフは事務の中年女性が1人で看護師はいない。ガーデンウェディングもできそうな美しい庭園が囲む診療所は、鉄格子に閉ざされた精神病院の陰鬱なイメージを覆すものだった。
もっとも、病院というイメージを一番壊したのは医院長である西園慎だったけれど。
「――米里さん、大丈夫ですか?」
「え?」
ぼんやりしていたところに声をかけられ、花梨は顔を上げた。見れば、対面から慎が顔を覗き込んでいる。
「気分が悪くなりましたか?」
「ああっ、いえっ、大丈夫ですっ、ごめんなさいっ。私ってばボーっとしちゃって」
「少し休憩しましょうか。別れた恋人の事を思い出してしまいましたよね、すみません」
「先生が謝ることないですよっ」
「いや、僕が軽率でした」
完全に眼鏡を覆う前髪のせいで表情は見えないけれど、申し訳なさそうな顔をしているのは感じ取れる。おもむろに立ち上がると、慎は壁際の木製台に歩み寄り、お盆の上にあるティーセットに手を伸ばした。
「お茶淹れますね。何がいいかなぁ……そうだ、ハイレンジにしよう」
「先生は紅茶に詳しいんですね。ハイレンジって初めて聞きました」
「最近注目されてる南インド産の茶葉なんですよ。オレンジの花の香りがする爽やかな風味なんです」
開けっ放しの大きなベランダから、そよ風が遠慮がちに入り込んできた。レースの遮光カーテンがふわりと舞う。同時に、ティーポットからカップへ流れる紅茶の香りが漂った。
「僕が大学時代に受講していた講義で、紅茶と睡眠をテーマにした回があったんですが、そこからすっかりハマっちゃいましてね。紅茶には睡眠に有効な成分がたくさん含まれていて、テアニンやゲラニオール、リナロールは交感神経の働きを抑えて脳をリラックスさせる効果があるんです。自律神経のバランスも整えてくれるので、寝つきも良くなるんですよ」
「へぇ、そうなんですかぁ。オススメのお茶とかあります?」
「アールグレイでミルクティーにしたり、キーマンティーにハチミツを少し入れて飲むのもいいですね」
花梨は木製台の上を見た。四角い缶には、ダージリンやオレンジペコなど茶葉の名前がプリントされている。慎は紅茶好きで凝り性らしい。物腰柔らかい雰囲気と、聞き心地の良い声音で語る彼には、確かにコーヒーよりも紅茶の方が似合ってる気がした。
「米里さんは普段、どんなものを飲みますか? もしかして紅茶は好みじゃなかったかな」
「いえ、好きですよ」
ウソじゃない。好みで言えば、本当はコーヒーが好き。でもせっかく淹れてくれた紅茶にケチをつけるようで、正直に答えるのは気が引けた。
「そうだ米里さん、今日は天気がいいので庭に行きましょうか」
高級ホテルのバトラーみたいに優雅な所作で、オシャレな白磁のティーカップに紅茶を注ぎながら、慎が庭に顔を向けた。診察室のベランダに面する庭園には、白いテーブルとイスが置いてある。慎に促されるまま、花梨は後ろについて外に出た。
西日の柔らかい光が花びらに反射している。花々が咲き誇る庭は、クリーム色のベールに覆われたように、隅々までセピア色に染まっていた。白いテーブルに寄り添う椅子に腰かけると、対面に座った慎が静かにソーサーごとティーカップを差し出してくる。花の香りに混じって、紅茶の清々しい匂いが鼻腔をくすぐってきた。
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