真夜中のメッセージ

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「証拠はないんですが、元カレじゃないかと思います」  健悟から受けた忌まわしい記憶が、頭の奥底からしみ出てくる。こっそり女友達と飲みに行ったことを怒り、社内会議で男性社員の横に座ったと責め立て、肩で息をしながら裏切りだと叫んだ健悟の顔が脳裏に甦った。 「私が別れ話をした時、かなり怒ってましたからね。他に男ができたんだろうって疑ってましたけど、否定したってどうせ信じないので、放っておいたんです。なので、私を監視していたとしても驚きません。そのぐらいのこと、健悟ならするかもしれない……」 「わかりました」  遮るように呟くと、慎は前髪の上から眼鏡を押し上げた。 「とりあえず、メールの件はしばらく様子を見ましょう。続くようであれば警察に頼ることも視野に入れるべきだと思いますが、今はまず体調を整えるのが先です」  花梨は黙って頷いた。全てを慎に委ねたかった。この2週間、仕事でヘトヘトになって家に帰り、真夜中のメッセージに悩まされ、眠ることも許されず、疲れ果てていた。会社では努めて明るく振る舞い、仲間たちと良好な人間関係を築きながら仕事をしつつも、こっそりトイレで何度も泣いた。  もう何も考えたくない。  悩みたくない。  眠りたい……  そんな心の叫びを聞き取ったように、慎が優しく微笑みかけてくる。 「何も心配しなくていいですよ。しっかり食べて、ゆっくり休んで、ぐっすり眠れば元気が出ますから」  この笑顔を見ると、不思議と心が安らぐ。しかし同時に、子供じみた嫉妬心が胸の奥でくすぶり始めもした。こんなふうに、慎から優しくされている患者は何人もいるんだろう。それはどんな女性達なのか。  年は? 外見は? 症状は?―――沸々と浮かんでは消える疑問を振り払うと、花梨は漠然とした憂鬱を押し流すように大きく息を吐いた。 「すみません、先生……せっかく不眠の症状を治して頂いたのに……」 「謝ることなんてありませんよ。心身の疾患は簡単に改善しません。良くなったり、悪くなったり、波を乗り越えながら緩やかに治していくものですから。ところで、僕が前に出した薬は飲み切ってますよね?」  問いに、花梨は「はい」と短く答えた。慎の意識は不審メールではなく不眠症状の方に集中している。症状についていくつか質問され、寝つきの悪さや中途覚醒、頭痛や怠さを訴えると、慎は新しい薬を名を口にした。 「じゃあ、エスタゾラムという薬に変えますね。今までの系統とは違い少し効き目が強いので、寝る直前に飲んで下さい。当分の間、アルコールも控えて下さいね」 「そのお薬で治るんですか?」 「治すというより、まずはきちんと脳を休めて、心身の疲労を取り除き睡眠サイクルを整えます。この薬は即効性があるので、一気に眠ることができます。精神的不安と身体的疲労が重なって、生体リズムが乱れてしまいましたから、一度リセットしましょう。1週間ぐらい続けて、改善が見られたら以前の薬に戻します」 「わかりました」 「それと、今日はうちに泊まって下さい。明日の朝、車で花梨さんの家まで送りますから」 「はい…………はいっ!?」  危うく聞き流しそうになったところで、花梨はハっとした。咄嗟に隣を見上げて、凝然と聞き返した。 「えっ? ちょっ、なにっ、今泊まれって言いましたっ!?」  焦りと興奮で声が裏返った。聞き間違いかと思ったが、そうじゃないらしい。綺麗な歯列を覗かせながら、慎が小さく笑っている。 「言いましたよ」 「やっ、あのっ、泊まるっていうのは……」 「本当は、独りだと不安なんじゃありませんか?」 「!」  またも心の中を見透かされて、花梨は言葉を詰まらせた。掛けてる眼鏡は心を覗ける魔力でもあるんだろうか。慎は優しい笑みを添えて、冷静に提案してきた。 「不安や心細さを感じているなら、放置しない方がいいです。今は特に。だから今晩はうちに泊まっていきませんか? 着替えなどは貸しますから。それとも、誰か一緒にいてくれる方はいますか? 友人とかご家族などいれば送っていきますけど」  花梨は力なく項垂れた。 「……いません……」  美央は最近付き合い始めた彼氏の家だ。家族は160キロ離れた地方にいる。柚羽は仕事で夜は不在。慎の他に頼れる人などいなかった。  いや、違う。  頼らざるを得ないんじゃない。  慎に頼りたいのだ。  こうして隣にいてくれるだけでいい。  それだけで安心できるから。 「……一晩、お世話になります……」  もう強がるのはやめた。素直に自分の弱さを認めて、花梨は潔く頭を下げた。慎は安堵したようだった。もしかすると、不眠が再発したのは自分の力不足だと責任を感じていたのかもしれない。  気づけば時刻は7時に差し掛かっていて、窓から射し込む西日に薄い宵闇が混じっている。どこか現実離れした感覚の中、花梨はキッチンで夕食作りを手伝った。  意外なことに、慎は料理が上手だった。1人暮らしが長いせいだと笑っていたけれど、元々器用な人なんだと思う。見た目がモっサリしているので料理も大雑把なのかと思いきや、タイマーできっちり茹で時間を計ったり、食材を均等に切り揃えたり、シェフ並みの手際の良さと鮮やかな盛り付けにはちょっと驚かされた。  アンティークなシャンデリアの下、4人掛けのテーブルにバター醤油風味の野菜パスタと冷たい紅茶を置く。乾杯した後、慎と向かい合わせで作りたての温かいパスタを食べた。焦げた醤油の風味とバターの香りに、コシのある麺とシャキシャキしたキノコが絡み合い、絶妙な味わいがあって美味しかった。  安心感の副作用か、お皿いっぱいに盛られたパスタは何の抵抗もなくスルスルとお腹に収まった。考えたら最近、まともに食べてなかった。寝不足で朝は食欲がなく、帰宅後はベットに倒れ込むような毎日。ちゃんとご飯を食べたのは久しぶで、対面では慎が食べっぷりの良さを微笑ましく見つめていた。近所の住人からの頂き物だと言って出してくれた青肉のメロンも、しっかりとご馳走になった。  2人でキッチンに立ち、他愛もない話をしながら洗い物を片付けて、先にお風呂を借りた。入浴の間、慎はクリニックに戻り中途半端になっている仕事を片付けるという。お言葉に甘えて入浴を済ませると、慎から借りた濃紺のTシャツを羽織って浴室を出た。間違って少し大きいサイズを買ってしまい棚の中で眠っていたという新品のTシャツは、慎が大きいというだけあり、花梨にはブカブカだった。  首回りは肩ギリギリまで開いていて、半袖なのに肘の下まで隠れている。着丈も長く、膝上のところまで被さっていた。慎はハーフパンツも用意してくれたが、こちらはさすがに胴回りが大き過ぎて履ける気がしない。  リビングに戻ると、慎が階段から降りてくるところだった。時計の指針は10時を少し回っている。大人の就寝時間としては早いが、慎にはもう寝た方がいいと勧められた。寝室は2階にあるという。案内されて階段を上がると、広いスペースにはバルコニーがあり、診療室から見える裏手の庭園が一望できた。奥の森は闇に沈んでいるが、花壇が規則正しく並ぶ庭には太陽光ライトが設置され、点々と白い光を灯している。  花梨は促されるまま、向かって右側の部屋に入った。借りているアパートの部屋が丸ごと入るぐらい広々としたそこは、慎の寝室らしい。壁際にダブルサイズのベットが置かれ、両脇の台の上に、黄色味がかった光を放つ布傘のライトが立っている。だが、目立ったインテリアはそれぐらいだった。反対側の壁は一面がクローゼットで、後は小物を置くサイドボードがあるだけ。広いけれど、少し物寂しげな寝室だ。 「薬と水はそこに置いてあります」
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