真夜中のメッセージ

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 ライト台の上に、水が入ったグラスと錠剤が用意してあった。花梨はベットに腰かけながら、薬が入ったプラスチック板を摘まみ上げた。 「これですね」 「そうです。とにかく今夜はよく眠って下さい。それから……」  慎は優しい手つきでそっとスマホを取り上げた。 「これは僕が預かります。花梨さんは眠ることに集中して下さい」 「あのぉ、先生はどこで寝るんですか?」 「僕はリビングのソファで休みます」  花梨は慌てて立ち上がった。 「そんなっ、だったら私がソファで寝ますからっ、先生はここでっ」 「いいんです」  制するように言って、慎はスマホを一旦台の上に置いた。肩に添えた手で花梨を座らせると、その前に膝まづいて水の入ったグラスを渡す。パリパリと乾いた音がするプラスチック板から錠剤を押し出して、静かに花梨の掌に乗せた。 「僕にとってはソファもベットみたいなもんですから。テレビ見ながらよく寝ちゃうんで。さぁ、薬を飲んで下さい」  家主を差し置いてベットを占領することにためらいながらも、花梨は言われた通り薬を飲み、布団の中に入った。シーツや枕カバーを取り換えたのか、ピンとのりが張っている。 「明日は6時半に起こしますね。トイレは階段の脇にもあります。何かあれば呼んで下さい。僕は下にいますから」  リモコンのボタンを慎が押すなり、天井のライトが消えた。ふわりを闇が覆いかぶさった室内を、布傘のライトがぼんやりと照らしている。ベットの脇では、慎が穏やかに微笑んでいた。まるで子供を寝かしつける父親みたいな優しい空気に、疲労と不安で凍えていた心が温められる。  慎が側にいるだけで、こんなにも安らげるなんて。心に凝り固まっていた不安や悩みが、慎の存在感に溶かされてゆく。入れ替わるようにして何か熱いものが体に満ちてきた。腹部の奥深くから、生々しい恋慕が湧いてくる。誤魔化しようのない慎への気持ちをはっきりと自覚させられて、花梨は戸惑った。 「じゃ、おやすみなさい」 「先生っ」  ライトを消そうとした慎の手を、花梨は衝動的に掴んでいた。驚いた慎が固まっている。自分でも、なぜそんなことをしたのかわからない。気づいた時には慎を引き止めていた。 「あのっ……」 「どうしました? 具合が悪くなったんですか?」 「いえ……大丈夫ですけど……」  慈父のような慎の優しさが、苦しむ患者たちへ公平に分け与えられているのかと思うと、いたたまれなかった。誰に対してもこんなふうに微笑みかけ、献身的に尽くし、ベットまで貸してあげるのか―――幼稚な嫉妬心がフツフツと泡立ち、膨らんでいく。胸の奥でくすぶる淀んだ想いが喉まで込み上げ、震える唇から勝手に漏れ出した。 「先生はどうして私に優しくしてくれるんですか?」  きいてどうするの―――頭の片隅で、冷静な自分がそう言っている。一体自分はどんな答えが欲しいのか。花梨自身わからないまま、高ぶる感情に流されるように投げかけていた。 「私が重症だからですか? 治りが遅いから、責任を感じてお家に泊めてくれるんですか?」 「……」    途方にくれたみたいに、慎は口を鎖している。善意を下らない嫉妬心で踏みにじられて気分を害したのか、それとも、単に患者を救いたい一心で施した責任感を変に疑われて戸惑っているのか、慎の表情は硬い。微かに震える唇は、何を言おうとしてるんだろう。数十秒の重苦しい静寂を挟んで、押し割るように開いた慎の口から、どこか苦しげな声がもれた。 「うちはクリニックですので、患者さんを入院させることはできません。だからこれは治療じゃありません」 「だったら何ですか?」 「……」  慎は手中の手首を反転させると、今度は逆に、手首を掴み返してきた。枕の上からじっと見下ろし、観念したように深く息をついた。 「今夜泊めたのは医師としてではなく、僕個人が花梨さんの力になりたいと思ったからです」 「それは、人として放っておけないってこと?」  苦笑しながら慎は首を振った。 「僕は、無関心な人を助けるほど慈善家じゃありませんよ」 「なら先生は私に関心があるんですか?」 「物凄いストレートなきき方するんですね」 「はっきり言わなきゃダメだと、友人に注意されたものですから」 「確かに……言葉にしなきゃ、伝わらないですよね」  ライトの黄色味がかった淡い光が、慎の顔を闇の中に浮き上がらせている。眼鏡を覆い隠す前髪の奥から、皮膚を焦がすような視線が感じ取れた。手首を握り返してくる大きな掌も、熱く火照っている。 「花梨さんに、隠していることがあります」  重たい息を絡ませて、慎は懺悔でもするように告げた。 「でも今はまだ言えません。もう少し待って下さい。不眠症の治療が終わったら、その時に伝えます。だから今夜はこのまま――」 「待てません」  花梨は引き下がらなかった。今はまだ言えないという言葉の裏に、慎のどんな想いが隠れているのか知りたかった。 「先生が隠してることって何ですか?」  困らせたいわけじゃなかった。でも、慎との距離が縮まらず、それがひどくもどかしい。特別じゃないというならいっそ、誰にでもやってる保険対象外のサービスだと言って欲しかった。花梨はゆっくりと手を引いて慎を自分の方へ引き寄せると、半分しか表情が見えない顔に訴えかけた。 「先生……私、教えて欲しいです。今知りたいんです。先生の気持ち」 「……」  慎の唇は、何か訴えたそうに震えている。迷い悩んでいる唇を見つめながら、花梨はを言葉を重ねた。 「私も先生に隠してることがあるんです……でも、自分に正直じゃないのって、苦しいんですよね」  黙している慎の頬がピクリと反応した。苦しそうに震える慎の呼吸を聞きながら、花梨は小さく笑った。 「先生も胸の中に秘密を隠しておくの、苦しくないですか?」 「……ええ、苦しいですよ」  ひび割れた声が、震える慎の唇から漏れた。深く息を吐いて肩を下げると、慎は切なげに表情を歪めた。 「けど、やっぱり今は言えません。花梨さんのやつれた姿を見て、どうしても放っておけず家に泊めてしまった……この行為に、下心があったと誤解されたくありません」 「誤解しません」  慎の訴えに、花梨は力強く返した。 「私、ちゃんとわかってます。先生が必死に私を助けようとしてくれていること、理解してます。だから教えて下さい、先生の気持ち……私が眠ってしまう前に」 「……」 「先生……」  口を閉ざす慎の沈黙には、葛藤の気配が色濃く滲んでいる。揺れ動く心のあり様が、震える吐息に現れていた。どのぐらい黙していただろう。重苦しい沈黙の後、慎は大きな溜息をつくと、観念したように微笑んだ。 「……花梨さんが好きです……」  ようやく聞けた"隠し事"は、花梨が望んでいた通りの言葉だった。  「僕は、いつの間にかあなたを患者ではなく、一人の女性として見ていました。でも主治医である僕には、あなたを治療する責任がある。だから不眠症が完治するまで医者に徹しようと、必死に自分の気持ちを抑えてたんです。それが、僕の精一杯の誠意でした」  慎の切なげな声が、心地良く胸に響いてくる。体の隅々に沁みてゆく安心感が心を高ぶらせた。酔いが回ったみたいに頭がクラクラする。欲情とか淫意など、淫らな欲はない。ただ抱きしめて欲しかった。優しい手に抱かれて、その温もりを感じながら眠りたい―――花梨は慎を見上げたまま募る想いを口にした。 「私も先生が好きです。でも、先生に会いたいと思うのは癒されたいからだって、ずっと自分の気持ちを誤魔化してきました。告白するつもりもなかったです。恋人と別れてすぐに好きな人ができるなんて、軽い人間だと先生に思われたくなかったから……これが、私の隠し事です。ズルいですよね、先生に告白させた後で自分の気持ちを伝えるなんて、後出しジャンケンみたいで卑怯ですよね」 「それはお互い様です。僕もずっと"治療に取り組む真面目な医者"のフリをしてましたから。でもどんな形であれ、花梨さんの想いが聞けて凄く嬉しいです」  淡いライトの中で、慎が幸せそうに微笑んでいる。月夜に咲くヨルガオの花のように、清澄で甘やかな情緒が感じられる柔らかい笑顔。こんなふうに微笑みかけて欲しかった。前髪の奥から注がれる温かな視線に、胸の底から熱い想いが込み上げてくる。 「先生……」  花梨はキュっと慎の手首を握った。自分を抑えていられなかった。言葉ではなく体温で愛情を感じたいという、飢えにも似た思いに理性が壊され、求めることしかできなくなっていた。 「先生にお願いがあるんです」  気づいた時には既に、口にしてしまっていた。 「私、先生と一緒に眠りたい」 「はっ?」  途端に慎の口元が引きつった。わなわなと震える唇から、徐々に赤味が広がり顔全体を染めてゆく。 「僕と一緒に眠りたいって……」 「隣にいて欲しいんです」 「いや、それはさすがにちょっと……」 「私、別にイヤらしい意味で言ってるわけじゃありませんよ」 「わかってます。添い寝して欲しいってことですよね。でも、隣で寝るっていうのは……」  慎は言い濁したまま、少しの間押し黙っていた。 「……すみません。やっぱり一緒に寝ることはできません」 「私が眠るまでの間だけでもダメですか?」 「……」  溜息交じりに慎が頷く。ここまで拒否されては、受け入れるしかなかった。少しショックだったけれど仕方ない。考えてみれば厚かましい願いだった。花梨はしょんぼりと呟いた。 「……ですよね。ごめんなさい、ワガママ言って。抱き枕代わりにされるみたいでイヤですよね」 「そうじゃなくてっ」  勢いよく否定した慎の声は、興奮気味に震えていた。赤い顔を切なげに歪めて、絞り出すように告げる。 「僕がっ……我慢できそうにない……」 「!」  自分の弱さから目を背けるように、慎がフイっと横を向いた。手首を握る熱い掌が、汗でしっとりと濡れている。赤い横顔を見ていると、急に愛しさが込み上げてきた。告白されて困っている思春期の中学生みたい。薄く笑いながら、花梨は慎の手首を引っ張った。自分の方に引き寄せて、間近に迫った頬に囁きかけた。 「我慢しなくていいです」 「……」    深い吐息と共に、手首を掴んでいる慎の手から力が抜けた。真上にある前髪で半分隠れた顔から、赤みがゆっくりと引いてゆく。慎は困ったように微笑んで、愛しげに髪を撫でてきた。綺麗な歯列を覗かせながら、冗談めかした口調で呟いた。
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