夢の中の足跡

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夢の中の足跡

 濃厚な夜空の下に、光の粒が果てしなく散りばめられている。  病院の屋上から見渡す夜の街は、生命力に満ちていた。黄色や赤の光の筋が行き交う様は循環する血液にも似て、街全体の力強い脈動を感じさせる。  "キレイね……"  夜風に長い髪を遊ばせながら、あの人は嬉しそうに微笑んだ。久しぶりに見る笑顔は、少し頬がコケているけれど、その美貌は色褪せていない。薄着で佇む細い体に寄り添いながら、骨の浮いた手を握って、眼下に広がる夜景を不安な気持ちで眺めた。  "夜景って、なんだか星空みたいね"  言って、クスクス笑っている。繋いでいる手は、ひどく冷たい。柔らかく、しなやかだが、死人にように冷え切っている。屋上を吹き抜ける夜風のせいだろうか。  風邪を引くのではないかと心配しながら、隣で夜景を眺める美しい横顔を見上げた。虚ろな瞳は、答えを探し求めるかのように夜の街を彷徨っている。  "ねぇ……"  夜風に吹かれるまま夜の街を見つめて、あの人がポツリと呟いた。  "もしあなたが死んだら、彼……私の所に戻ってくるかな……"  次の瞬間、凄まじい力で繋いだ手を引っ張られた。  "堕ちてぇッ――"  カタカタと食器が重なる音が聞こえた。眠りから覚めたばかりの意識の中に、キッチンで動き回る人の気配が流れ込んでくる。寸前まで、ひどく質の悪い夢を見ていたような気がするけれど、よく覚えていない。  慎はもぞもぞと手探りで眼鏡を探した。いつもはベット脇のライト台の上に置くのだが、今日は台との間に大きな溝あった。そこでふと思い出した。昨夜はリビングのソファで寝たのだった。花梨に寝室を貸したので、シャワーを浴びた後は2階へ上がらずそのままソファに横になった。  慌てて目を開けるも、視界がぼやけて良く見えない。モザイクみたいな景色の中で、テーブルの上に銀色の影がぼんやり映る。距離感もつかめないまま銀色の影を掴み取り、急いで鼻の上に引っ掛けると、ようやくモザイクが晴れて視界が鮮明になった。 「あっ、先生……おはようございます」  頭の向こうから甘やかな声がした。起き上がると、薄化粧をして身支度を整えた花梨が、キッチンからラップに包んだ皿を運んでくるところだった。 「花梨さん……おはようございます。体調はどうですか?」  食卓テーブルに皿を置いた花梨が一瞬、ピクリと体を強張らせた。横顔が薄っすらとピンク色に染まってゆく。わざと目を合わせないようにしているらしく、花梨は手元に視線を落としたままだ。 「おかげさまで、一度も目が覚めずにぐっすり寝ましたよ」 「そうですか、良かったです……ん? それは何ですか?」  慎はテーブルに歩み寄った。ラップに包まれた皿には、二等辺三角形に切り揃えられ、間に卵とキュウリが挟まったパンが重なっていた。気恥ずかしげに微笑みながら、花梨はラップの乱れを整えている。 「朝食にサンドイッチを作ったんです。先生、お好きですか?」 「もちろんです。こんな立派な朝食は久しぶりだな。わざわざ作ってくれたんですね。ありがとうございます」 「泊めて頂いたお礼です。お口に合うといいんですけど」  じんわりと胸が熱くなってくる。慎は細くてしなやかな手がラップを撫でる様子を、愛しく思いながら静かに見つめた。朝は食べたり食べなかったりだ。このパンも、近所の世話好きな主婦が自宅で焼いたおすそ分け品。正直、朝食を作るのは面倒だった。もともと3食きちんと食べる習慣もない。  そのくせ、こういう朝の風景に憧れていた。食卓に並ぶ手作りのサンドイッチと、瑞々しい生野菜のサラダが彩る食卓。CMでよく見るありきたりな風景だが、経験したことがない慎にとっては家族の絆を感じさせる尊いものだった。幸せな家族の匂い―――花梨は家庭の香りがする。 「それと先生、シャワーを使わせてもらいました。あと洗濯機も」  花梨が恥ずかしそうに浴室へ目を向けた。 「シーツを洗ってお外に干しましたので、後で取り込んでおいて下さい」 「食事の他に洗濯まで……そんなの僕がするからいいのに」 「先生に洗って頂くわけにはいきません」 「どうしてですか?」 「やっ、どうしてって……その……」  困ったように眉を下げた花梨の顔が、ピンク色から赤に変色していく。昨夜ベットの上で交わした花梨との情事を思い出したら、急にくすぐったい気分になった。  今更言い訳がましいけれど、昨夜は純粋に花梨が心配で家に泊めた。そこには一粒の邪欲もなかったと断言できる。けれど結果的に、医師と患者の関係を壊してしまった。いや、壊しただけならまだいいが、相手の心細さと好意につけ込んで手を出すなどもはや犯罪に等しい。  なのに、後悔どころか満足している自分がいる。  もう誤魔化さなくていい。気持ちを抑えなくていい。今や花梨は自分のものになったのだと、浅ましい喜びが胸を高鳴らせていた。  艶やかな髪も、赤い頬も、震える唇も全てが愛おしい。もっと色んな反応が見たい。恥じらったり、困ったり、笑ったり、色んな表情を見せて欲しくて、慎は赤く染まった花梨の顔を覗き込むと、わざと意地悪な質問をした。 「何か、僕に洗濯させたくない理由でもあるんですか?」  ギョっと見上げてきた花梨が、怒ったように頬を膨らませた。 「そそそっ、それを私に言えって言うんですかっ?」 「ん~……ちょっと聞きたいかも」 「わかってるくせにぃっ」  なんて可愛い反応だろう。真っ赤な顔で抗議してくる花梨に、慎は笑いながら短く詫びた。 「ハハハ、すみません。冗談です」 「んもぅ!」 「でも良かった」 「何がですか。全然良くないです。思い出すのも恥ずかしいのに……わっ」  無意識のうち、花梨を抱きしめていた。細い体はすっぽりと腕の中に収まり、強張っているように感じる。慎は深く息を吸い込んだ。温かくて柔らかい幸福感が、胸にしみ込んでくる。重なった胸から、トクトクと速い花梨の鼓動が伝わってきた。 「花梨さんが元気になって、安心しました」 「……」  返事の代わりに、花梨がキュっと抱きしめ返してきた。ずっとこうして抱いていたい。この腕の中に閉じ込めておけたらいいのに――― 「先生、携帯が鳴ってますよ」 「え? あぁ……」  振り返ると、ソファの前のテーブル上で、スマホがブーブーと痙攣していた。昨日セットした目覚ましだ。慎は名残惜しく花梨を放して、テーブルに歩み寄った。起床を報せるスマホの画面には、6:30の文字が浮かんでいる。目覚ましを止めて、待機画面に戻したところでふと、メールが届いているのに気がついた。  こんな朝早くに受信マークがつくのは珍しい。迷惑メールの類はしっかりブロックしているので、不必要な報せが届くことは滅多にないのだが。  何気なく受信メッセージを開いた瞬間。 「――ッ!?」  慎は息をのんだ。 > その女は お前にふさわしくない  背筋に悪寒が走った。    凝然と画面を見たまま、慎は硬直した。  一体なんだ、このメールは。  "その女"とは誰だ?   花梨のことをいってるのか!?  慎はもう一度メールを読み返した。  そもそもこれは、単なる迷惑メールじゃなさそうだ。意図的に送られてきた感がある。しかし誰が、何のためにこんな不可解なメッセージを送りつけてきたというのか。  慎は差出人を見た。信じられないことに、差出人は自分のアドレスだ。正確には、自分のアドレスの後ろに怪しい英数字が連なっている。
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