夢の中の足跡

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 ふと、花梨から打ち明けられた迷惑メールの件を思い出した。  もしやこのメールの送り主は、花梨に不審なメッセージを送信している者と同一人物なのではないか―――疑念が浮かぶと同時に、慎は窓辺に駆け寄った。  仮にそうなら、"その女"とは花梨のことだろう。そして彼女がここに泊まったことを知っていることになる。推測ではなく、直接見ていたのかもしれない。  慎は勢いよくカーテンを開けた。石畳を数メートル進んだ先の門の奥には、区画整備された住宅が規則正しく並んでいる。早朝の住宅街にはまだ人の姿はなかった。電信柱の影や、周辺住宅の窓、路上の車の奥を見渡したが、不審な人物は見当たらない。 「先生、どうしたんですか?」  隣に来た花梨が訝しげに覗き込んできた。変なメールが来たと言いかけて、慎は慌てて言葉を飲み込んだ。 「いえ、あの……まだ鳥にエサをあげてなかったなと思いまして」 「えっ、鳥が来るんですかっ? すご~い!」  大きく見開いた瞳を輝かせて、花梨が窓ガラスの奥をニコニコと見回している。メールの件は黙っておくことにした。伝えたところで何の解決にもならない。花梨に余計な心配をかけるだけ。心労は彼女の不眠症を悪化させる。 「色んな鳥が来ますよ」  花壇の中央に立つ餌箱を指さしながら、慎はスマホをポケットに押し込んだ。 「あそこにエサ箱を置いてるんですが、一番多いのはスズメかな。コチドリやたまにシジュウカラも来ますよ」 「ステキですねっ。私、鳥大好きです。うちはペット不可なので生き物は買えませんけど、実家にはインコがいるんですよ……うわっ、大変! もうこんな時間だっ」  花梨が突然、顔を強張らせた。壁時計を見るなり慌てて食卓テーブルに戻り、椅子に置いたバックを肩にひっかける。 「先生、それじゃ私帰りますね」 「はっ?」  慌てたのは慎も同じだった。玄関に向かう花梨の腕を掴んで引き止めた。 「待って下さい、家まで送りますからっ」 「大丈夫です。地下鉄で帰りますので」  遮るように花梨が言った。 「今出れば7時半には家に着きます。先生だってこれからお仕事があるし……」 「僕に送らせて下さい」  焦る気持ちを抑えながら、慎は努めて冷静に訴えた。今花梨を1人で帰すわけにはいかなかった。あの不審メールの送り主が、この近くに身をひそめているかもしれない。 「少しでも長く花梨さんと一緒にいたいんです」 「!」  白さを取り戻した花梨の顔が、またほんのりと赤くなった。 「私も先生と一緒にいたいですけど……」 「ここで少し待ってて下さい。すぐに仕度しますから」  慎はその場に花梨を残して2階に駆け上がった。適当な服に着替え、急いで1階に下りて洗顔と歯磨きを済ませるなり車の鍵をひったくる。そのまま診療所に行き、1週間分の薬を持ってリビングに戻った。  その様子をポカンと眺めていた花梨を連れて、慎は周囲を警戒しながら外に出た。自宅脇に増設したカーポートに向かい、駐車しているクラウンの助手席に花梨を乗せた。  円山から豊平川を越えた先に、札幌市内でも有名な私立大学がある。車で20分ぐらい離れたそこに、花梨は暮らしているという。中心部から近く、地下鉄もあり、交通の便がいいので大学時代に借りたままずっと住んでいるらしい。  南19条橋を抜けて環状線を走り、平岸通りに入って大学を目指す。イタリアン、カレー専門店、ベーカリーと、建ち並ぶ美味しいお店について楽しげに語る花梨に相槌を打ちながら、慎はそれとなく探りを入れた。 「怪しいインド人の絶品ツナカレーですか、食べてみたいな……ところで、今朝は怪しいメールは来てましたか?」 「いいえ、来てません。最後にメールが届いたのは一昨日でした」  ということは、嫌がらせのターゲットが花梨から自分へ移ったのだろうか。しかし、どうやってこちらのアドレスを入手したのか見当もつかない。ホームページに載せているのはクリニックのメールアドレスのみ。SNSの類は一切しておらず、スマホのメアドなんて個人情報がバレるような行動はとってない。  それに、相手の意図も不明瞭だ。花梨の元彼を送り主と仮定して、彼は一体何がしたいのだろう。"あの女はお前にふさわしくない"―――花梨を奪った新しい男に向ける脅迫にしては奇妙な言い回しだ。メッセージにこもる憎悪や威圧感も薄い気がする。この手の人間は、自分のものを奪った相手に対してもっと攻撃的になるのだが。 「花梨さん、そのメールはどうしてます?」 「消去してますよ。気持ち悪いですもん」 「次に届いたら、念の為に保存しておきましょうか。嫌がらせの証拠になりますからね」 「わかりましたっ。じゃあ、消さないでおきますねっ」  今のところ、できる事はこれぐらいだった。ナビに従ってハンドルを左に回しながら、慎は密かに溜息をついた。いずれにせよ、厄介な相手だ。不正にアドレスを入手し、花梨の行動も把握している。元彼の仕業だと思うと花梨は言ったが、仮にそうなら余計にマズイ。嫉妬深い束縛男子だった元彼は、今や立派なストーカーに変貌したことになる。  何か手を打たなければと考えてるうち、花梨の家についてしまった。わりと落ち着いた住宅街だ。2階建てアパートの1階、向かって右端の103号室前に車を停める。シートベルトを外しながら花梨が頭を下げた。 「送って頂いてありがとうございました」 「どういたしまして。会社は間に合いそうですか?」 「余裕ですよぉ。次の診察は来週でしたよね」 「ええ、いつも通り18時に入れました。もし薬の副作用が出たらすぐに飲むのをやめて、僕に連絡して下さいね」 「あのぉ……」    口ごもりながら花梨がきいてきた。 「副作用がないと、ダメですか?」 「え?」 「先生の声が聞きたいからって理由で、電話しちゃダメですか?」  一瞬、言葉が出てこなかった。そんないじらしい質問をされるとは。花梨は真面目な顔でこちらを見ているが、頬は桃色に染まっている。きっと、勇気を振り絞って口にしたんだろう。  慎は前髪の奥から愛らしい顔を見返した。このまま花梨を抱き締めたかった。いっそ、車に閉じ込めて家に連れ帰ってしまおうか。そんな思いに駆られることに驚いた。こんな貪欲さが自分にあったなんて思わなかったから。 「……いつでも、好きな時にどうぞ」  気恥ずかしげに返事を待つ花梨を見ていたら、心底帰したくなくなった。 「僕も花梨さんの声が聞きたいです」  少しでも気を抜けば、花梨へ手を伸ばしてしまいそうになる聞き分けの悪い自分を必死に抑えながら、慎は冷静に答えた。胸の内に元彼と同じような独占欲を宿しているとは知る由もなく、花梨は無邪気に喜んでいる。 「なら遠慮なく電話しちゃおっと」 「ハハっ、待ってます」 「先生、またお家にお泊まりしてもいいですか?」 「もちろん」 「次は私が夕食を作りますね。先生ほど上手じゃないですけど」 「花梨さんの手料理ですか、嬉しいな。楽しみにしてます。ではまた来週……絶対にムリしないで下さいね。我慢はダメですよ?」 「はい。辛くなったらちゃんと先生に甘えます」  可愛い返事に、つい顔がほころんでしまった。 「じゃあ、お仕事頑張って下さい」 「はい! 先生も!」  嬉しそうな笑顔を見せて、花梨は車を降りた。車窓の奥で手を振る彼女をその場に残し、後ろ髪を引かれる思いでアクセルを踏む。バックミラーに映る花梨は、角を曲がるまで手を振っていた。ぽっかりと空いた助手席が、妙に寂しい。花梨の存在感の大きさを改めて思い知らされる。
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