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同じ道を辿って帰ってきたはずなのに、やたらと時間が長く感じた。自宅の玄関前を彩る花々はどこか色褪せて映り、上質な家具が揃うリビングも花弁が散った桜並木のような侘しさが感じられる。
花梨の面影が脳裏に甦ると、胸の奥から熱い想いが沸き立ってきた。恋愛には淡泊だった自分が、10歳も年下の若い女性に溺れている。どこか浮かれている自分の滑稽さに、慎は自嘲しながら洗面所に向かった。
あと1時間もすれば事務員が来る。最近はネットを見た新規の患者が多く、今日も予約で全ての診療時間が埋まっている。早く恋ボケした頭を仕事モードに切り替えなければと焦る程、花梨の存在感が膨らんだ。
昨夜は抑えがきかなかった。情欲に引きずられて一線を越えてしまった。抱かなかったのは、わずかに残った倫理観が避妊具なしでの行為を許さなかったからだ。花梨を欲の捌け口にするようで嫌だった。とは言えよく我慢したと自分でも思う。どうにか人としての道を踏み外さずに済んだ。
「……全く、いい歳して何やってるんだか……」
鏡の中の自分を見つめながら、慎はやれやれと自嘲した。やるべき事が山のようにある。クリニックの患者の診療はもちろん、花梨の不眠症の治療と、不審メールの対処も具体的に考えなければならないのに、心が通じ合った喜びと興奮で完全に舞い上がっている自分が情けない。
「よし、仕事しよう」
自分に喝を入れ、両手で頬をパンを挟んだ瞬間にふと、その手触りに違和感を覚えた。さっき顔を洗った時は急いでいたので気づかなかったが、頬にザラつきがない。アゴも同じだ。元々ヒゲは薄い方で、朝も目立つ程ではないにせよ、いつもは指に紙ヤスリのような感触がある。体調の影響だろうか。
訝しく思いながらシェービング缶を手に取った、その時だった。
「――ッ!?」
慎は戦慄した。落としたシェービング缶が洗面台の上を転がるも、声すら出せずに凍りつく。
缶は新品だった。
中身が詰まってずっしり重い。そんなハズはなかった。昨日、最後に使った時にはプスプスと空気が漏れていたのだ。買い置きしてある新しい缶に取り換えようと思っていたのに、それがなぜ新品に変わっているのか。反射的に慎はゴミ箱を覗き込んだ。
直後、一気に目の前が暗くなった。
ある。
燃えないゴミ用の箱の中に、空になったシェービング缶が横たわっている。
慎は震える手で口を押さえた。空のシェービング缶はいつも、スプレー缶専用のゴミ箱に捨てている。燃えないゴミとは一緒にはしない。そもそも新しい物に変えた記憶がないのだ。その事が何より慎の恐怖を煽り立てた。
記憶がない―――
最後にあれが出たのは何年も前だ。
主治医の言いつけに従い生活を改善させ、薬の力も借りてようやく抑え込んだ。
今は服薬をこそやめたが、どんな用事があろうと必ず0時までには就寝している。夜の外出に細心の注意を払っているのも、全ては悪夢を封じ込めるためだった。
それが、ここにきて再発したというのか。
慎はヨロめきながら後退った。壁にドンと背中を止められても、身動きできずに呆然と立つ尽くす。
あれから18年。
悪夢は完治させたはずだったのに―――
「どうして今頃っ……!」
脳裏にさっき別れた花梨の笑顔が浮かんだ。慎は背中を壁に預けたまま、ズルズルと崩れるように座り込んだ。まだ、再発と決まったわけじゃない。習慣的な行動は記憶に留めていないことだってある。無意識のうちに新しい缶と取り換え、間違って燃えないゴミに捨ててしまっただけかもしれない。
だが、ほんの少しでも可能性があるなら、花梨と夜を共に過ごすわけにはいかなかった。彼女を自分の近くにおいてはおけない。
慎は天井を見上げながら、必死に自分を落ち着かせた。あの頃とは違い、医者となった今は自分で診断が下せる。まずは症状の有無を確かめないと。主治医に相談するかどうかはそれから決める。
だが、花梨に何て言えばいいのだろうか。
またここへ泊まりに来るのを楽しみにしている彼女に、まさか何の理由も告げずやっぱりダメだとは言えない。だからといって正直に伝えるわけにもいかなかった。
もし打ち明ければ、心優しい花梨は同情してくれるだろう。自分より深刻な病を抱えていることに驚き、憐れみ、支えようとしてくれるに違いない。
だからこそ、何としても秘密にしておかなければならないのだ。知られたら最後、奇跡のようなこの恋は消滅してしまう。彼女の中で、愛情が同情に変わってしまう。その瞬間、せっかく実った恋は朽ち果てる。
花梨だけは失いたくなかった。
狂気と混乱に満ちた環境の中で正気を保つため、幼い頃から勉強に没することで現実から逃げてきた。薄氷を踏むような毎日の中に楽しみなどなく、恋と呼べるような感情も生まれないまま年だけ重ねた。
だからこれは奇跡なのだ。初めて心を惹かれ、欲した相手が同じように自分を愛してくれたことを、奇跡と呼ぶ意外に言い表しようがない。その尊い恋が、あれによって壊されるのだけは防ぎたかった。
ただでさえ今は関係が不安定だ。気持ちが通じ合ったばかりで、医師と患者、彼氏と彼女、2つの関係性がふわふわとお互いの狭間を浮遊している。感情もまだ恋人同士という枠にはまったものではなく、恋心と敬意が入り交じる脆いもの。そんな危うい関係の中に、あれが投石のように入り込んだら一瞬にして割れてしまう。
自分に向けられた花梨の恋心が、砕けて消える。
それだけは―――
「それだけは嫌だっ……!」
突き動かされるように立ち上がると、慎は洗面台の鏡と対峙した。そこに映る自分はもう頼りなげな弱い子供じゃない。
大丈夫。
治療できる。
いや、必ず封じ込めてみせる。
抗うことのできない宿命と向き合うように、慎は鏡に映った自分を決然と見つめた。拳を硬く、握りしめて。
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