43人が本棚に入れています
本棚に追加
> あいつのどこがいいんだ?
文字にはバカにしたような響きがあった。画面の奥から健悟の嘲笑が聴こえてくる。腹立たしさに震えている間、立て続けにメッセージが来た。
> 医者っていう肩書か?
> それともダサい眼鏡に萌えたか?
> 優しい男なんて趣味じゃねぇくせに
花梨は悔しさに奥歯を噛み締めながら返信した。
> 関係ないでしょ! 付きまとわないで!
30秒も経たずにメッセージが届く。
> 付きまとってるのはお前の方だろ
カチンときた。この期に及んで屁理屈で誤魔化そうとするとは。
> そっちでしょう!
返信は間髪入れずに送られてきた。
> お前だ
> ずっと俺のことを考えてるだろ
> どうしてメールなど送ってくるのか
> なんでお前の行動を知っているのか
> そうやって俺のことをずっと考えてる
> お前の方が俺に執着してるんだ
言い返したいのに、言葉が出てこない。濃霧のような眠気が意識に浸透し始めたのだ。花梨は頭を振って睡魔を払おうとした。必死に目を開き、痺れる思考を叩き起こす。だが薬の引力は絶大だった。意識が闇の底に引っ張られる。スマホを握ったまま、花梨は崩れるように横たわった。
視界が暗くなってゆく。
慎に会いたい。
「大丈夫ですよ」って微笑みかけて欲しい。
閉じた瞼から、自然と涙があふれた。
体から力が抜ける。吸い込まれるような脱力感の中で、花梨は意識を手放した。
今朝は珍しく蒸していた。
本州に比べて北海道の朝は乾いているというけれど、最近は温暖化の影響なのかそうでもない。窓を開ける程度の暑さ対策しかしてない蒸した部屋で、花梨はべっちょり汗を掻いて起きた。
睡眠導入剤も状況によっては良し悪しだ。確かにぐっすり眠れるけれど、逆を言えば何があっても起きないということ。熱くても目を覚まさないので水分補給もできず、下手すると熱中症で永遠の眠りにつく可能性もある。シャワーを浴びて身支度を整えながら、花梨は今夜の服用をどうしようか真剣に悩んだ。
昨日の深夜に届いたメールは、あれきりだった。このまま残しておくと自分のスマホが汚れるような気がして消去したかったが、嫌がらせの証拠として渋々保存しておいた。そのスマホから着信音が響いたのは、ちょうど化粧を終えた直後だった。
こんな朝に電話をかけてくるなんて、健悟が詫びでも入れてきたと意気込んだが、画面には別の番号が表示されている。慎からだ。恋しさが一気に胸に募る。花梨は慌てて受けた。
「もしもしっ、先生っ?」
朝の挨拶もせずに声をかけた。一時の間を置いて、ビオラの音色にも似た声音が響いてくる。
『花梨さん、おはようございます。西園です。朝早くにすみません』
申し訳なさそうに慎が言った。ずっと聞きたかった声が、鼓膜を優しくなでてくる。花梨は両手でスマホを握りしめた。気持ちが高ぶって、涙が滲んでくる。
『なんだか元気がなさそうですが、僕の思い過ごしかな。ちゃんと眠れてますか?』
気が緩んだ拍子に涙がこぼれた。このままじゃ声に涙が混じり、泣いているのがバレてしまう。心配をかけたくなくて、花梨は必要以上に明るく応じた。
「もちろんですっ、眠り過ぎて寝坊したぐらいですから」
『あっ、忙しいところに電話してしまいましたねっ』
「いいんですっ。先生の声が聞けて嬉しいですっ」
スピーカーの奥で、慎が息を飲んだのがわかった。どんな顔をしているのか、だいたい予想がつく。慎の照れくさそうな声が聞こえた。
『僕も花梨さんの声が聞きたかったです……あ、そうそう、先日のサンドイッチとても美味しかったです。花梨さんは料理が上手なんですね、ごちそうさまでした』
「食べてくれたんですか?」
『もちろんですよ。ありがとうございました……実は、今日は花梨さんに話したい事があって電話したんです』
「なんですか?」
『電話ではちょっと……今晩会えますか?』
ドキンとした。ずっと会いたいと思っていたのだ、嬉しくて自然と口元が緩んでしまう。
「はいっ、大丈夫ですっ」
『じゃあ、会社まで迎えに行きますね。今日は僕、午後から学会で街に出てますから仕事が終わったら連絡して下さい』
「わかりました。楽しみにしてます」
『僕もです……それじゃ後ほど』
電話を切ると同時に、ピンポン玉が跳ねるみたいに心が弾んだ。昨夜の腹立たしいメールと不快な目覚めで沈んでいた気分が、慎と会える昂揚感で浮き上がってくる。慎が会って伝えたいという話が何なのか、あまり深く考えなかった。心に踊らされるまま出勤の準備を終わらせ家を出ると、歩き慣れた道を辿って地下鉄駅に向かった。
普段仕事にはブラウスとスカートを合わせるのだが、退勤後のデートを考えて、今日は薄いエメラルド色のワンピースにした。白い薄手のカーテガンを羽織れば、程よい華やかさに収まる。朝の地下鉄はそれなりに混んでいるので、香水はほんのり香る程度。以前、匂いのキツイおばさんが隣に座り、大通駅に着くまで延々と匂いハラスメントを受けたので気をつけている。
いつも通りに駅に着き、出社してからは怒涛のような忙しさの中で午前のスケジュールを終えた後、ようやく15分だけ昼休みを取れた。自分が企画した紅茶酒のイベント開催日が迫っているので、連日こんな感じだ。立ち飲みバーみたいに丸テーブルが点々と並ぶ休憩室には、セルフ式の飲み物が壁際に並んでいる。無料なので味に文句は言えない。
花梨は無料の麦茶を丸テーブルに置いて、午後のスケジュールを確認した。やって来た美央と一緒に広告会社のポスターサンプルをチェックしながら、立ったまま麦茶をガブ飲みする。一番気に入ったポスターサンプルについて感想を述べていると、隣で美央がニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。
「ねぇ花梨、な~んか良い事でもあったのぉ?」
「なんで?」
「今朝からずっと元気だから」
「いつも元気だよ?」
「そうじゃなくて、ウキウキしてるって意味。あたしに隠し事してもムダだからね」
仕事に集中していたつもりだったが、自然と態度に出ていたらしい。花梨はエヘっと笑いながら肩を竦めた。
最初のコメントを投稿しよう!