43人が本棚に入れています
本棚に追加
「実は今朝ね、先生から電話もらったの。今夜会えますかって」
「おおっ、先生って意外に積極的なんだね。花梨から聞く先生の印象って、奥手なイメージだったんだけど、結構グイグイ来るんだぁ。初夜からまだ4日ぐらいしか経ってないのにね」
「初夜って言うのやめてよっ」
花梨は慌てて周囲を見た。幸い、休憩室には誰もいない。口の前に中指を立て、花梨は声を潜めた。
「そもそも先生のことは人に知られたくないの。心療内科に通ってるのは内緒にしてるんだから。健悟との付き合いやその後のゴタゴタを知ってるのは、上杉課長とミオだけなんだよっ」
「ああっ、そうだった! ごめん! それで先生とは……」
そこまで言いかけて、突然美央がハっと言葉を飲んだ。驚いたように見開いた目は、自分を通り越して背後に向けられている。
「ミオ? どうしたの?」
何事かと、花梨は視線を辿るように後ろを振り返った。
直後、体が硬直した。
「――澤井さん、久しぶり……米里さんも」
「!!」
一瞬、呼吸が止まった。
休憩スペースの広く開いたドアの所に、健悟が立っていた。隣には見知らぬ若い男性社員の姿も。旭川支社にいるはずの健悟がここにいる―――体に沁みついた恐怖心が、瞬間的に激しい怒りへ変わった。
真夜中に送り続けられる不愉快なメールと、勝ち誇ったような健悟の笑顔が、慎との幸せな時間を踏みつけ嘲笑っているように見えて、頭がカっと熱くなった。不穏な空気を素早く感じ取ったらしい美央が、営業用の笑顔を浮かべながら先に声をかけた。
「あらぁっ、松浦さん! お疲れ様ですぅ。もう本社に戻って来たんですかぁ? ついこの前出世して旭川に行ったばかりなのに」
「いや、今日は出張だよ」
美央の冗談に笑っているが、チラチラと視線を流してくる健悟の目に笑いはない。飲み会で、席が隣になった男性社員によく向けていたのと同じ、不満げな眼差しだ。
「そちらのイケメンはぁ?」
「旭川支店の部下だよ」
健悟の隣でペコリを会釈した若い社員は、スーツこそ来てはいるが髪は茶色で軽そうな男だった。愛想の良い笑顔を浮かべ、コンパに来た大学生みたいなノリで言う。
「どもーっす! 旭川支社マーケティング部2課の武部っす! いやぁ、オレ本社来たのって初めてなんすけどぉ、メチャ立派っすねぇ。社員さんだってほらぁ、こんな美人ばっかりし」
「え~そう? ありがとう~!」
嬉しそうに答えた美央など、もはや健悟は見ていなかった。花梨は込み上げる怒りを拳で握り潰しながら、突き刺さる傲慢な目と対決した。もう我慢しない。健悟の身勝手をこれ以上許さない。そう思うのに、なぜか体は喉の奥に罵声を引き止めていた。頭が怒りで満ちていく程、体は緊張感で動かなくなる。アンバランスな心と体の揺れに船酔いみたいな気持ち悪いさを感じながら、花梨はじっと健吾を睨んだ。
「松浦主任ズルいっすよぉ。いつも1人で札幌出張に行ってぇ。次からはオレも連れてって下さいよぉ」
「だから今回連れて来てやっただろ」
健悟が憮然と答えた。
「本社に来たい奴は多いんだ。ついて来たきゃ実績作れ」
「あら松浦さん、頻繁にこっちに来てたんですかぁ?」
美央に答えたのは若い社員の方だった。ニヤつきながら健悟を指さした。
「そうなんスよ。主任ってばしょっちゅう札幌に行くんすよぉ。仕事だって言ってますけどね、皆は本社にイイ人がいると思ってます」
「余計なことをベラベラ喋るな」
怒鳴ったわけじゃないけれど、威圧感のこもった物言いだった。途端に若い社員の口元が引きつった。上司をイジって愛嬌を見せたつもりが、怒りを買ってしまいようやく深刻さに気づいたらしい。事情を全て知る美央が、呆れたように呟いた。
「そう……松浦さん、頻繁に札幌に来てたんですかぁ。なら企画部にも顔出してくれたらよかったのに」
「いや、頻繁にっていうか……」
健悟が口ごもった。バツ悪そうにポリポリと首を掻いている。
「旭川では俺マーケティング部だし、本社に呼ばれる時は接待がほとんどだから忙しくてね。それに実家がこっちだからさ、親の所に寄ったり兄貴夫婦の家に顔出したりとか……」
札幌へ来ていた理由を語る健悟の口調には、言い訳がましい響きがあった。そりゃそうだろう。仕事のついでに元カノの行動を監視し、ハッカーまがいの小細工をして、新たな恋をなじるようなメールを夜中に送りつけているのだから、慌てて弁解もするはずだ。
強烈な怒りが、強張った体の内側で弾けた。その勢いのまま健悟の手首を掴むと、花梨は会話を断ち切るように言い放った。
「松浦さんにお話がありますっ、ちょっと来てくださいっ」
告げた時には既に、花梨は健悟を休憩室から連れ出していた。ポカンとしている美央と旭川の社員をその場に残して、斜め向かいにある中会議室に入る。室内は防音仕様で、0を描くような楕円型のテーブルを椅子がグルリと囲んでいる。
中へ放り込むように健悟を部屋に入れると、乱暴にドアを閉めて、花梨は心障の根源を睨みつけた。
「一体どういうつもりッ?」
甲高い声が奥のスクリーンまで反響する。最初こそ驚いた顔をしていた健悟だが、ドアが閉まって完全な密室空間が出来上がると同時に、勝ち誇ったように薄く笑った。
「それは俺のセリフ。いきなり拉致って会議室に連れて来るなんて、どういう心境の変化だ? 俺とは"二度と話したくない"って言ったのにさ」
健悟と最後に会った時、別れ話の締め括りに使ったセリフだ。どうやら根に持っているらしい。周りに人がおらず"仕事のできるイケメン"を気取らなくてよいせいか、健悟の顔からは人当たりの良い笑顔が剥がれ落ち、執念深い男の顔がのぞいている。
一歩近づいてくると、頭上から傲慢に見下ろしてきた。
「それともやっぱり、別れて後悔したか? 俺はいいよ、また付き合っても。考えてみたら俺も色々と悪かったし。お前のこと好き過ぎて、取られたくないって思いが強くなってたと思う。お前はそれが窮屈だったんだよな」
「話をすり替えないでよ!」
心底うんざりしながら花梨は怒鳴った。
最初のコメントを投稿しよう!