カタルシス

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「熱いので気を付けて下さいね」 「はい。頂きます」  花梨はカップにそっと口づけた。柔らかい苦味の中に漂う茶葉の甘みが、舌の上で絶妙に絡み合う。蜜柑の風味が爽やかに鼻から抜けた。 「うわぁ、おいしい。先生は紅茶を入れるのお上手ですね」 「知り合いに教えてもらったんですよ。花の扱い方と一緒にね」 「お庭も先生が手入れしてるんですか?」 「ええ、ガーデニングが趣味なので。友人達にはお茶だの庭イジリだの年寄りくさいってバカにされてますけど」  レンガ造りの花壇には、見栄えよく花々が植えられている。スズランやカンパニュラ、カラーといった白系の花々が多いのは彼の好みなんだろう。 「米里さんはどんな花が好きですか?」 「お花は……えっと……」  即答できなかったのは、自分の好みが目の前の花々にそぐわないと思ったからだ。本当はバラやランのような豪華な花が好きだった。色鮮やかで、香りの高い洋花の方が好みだが、そう答えるのは彼の趣向を否定するような響きがあって、口にしづらかった。花梨はティーカップをソーサーに戻すと、今ここに植えても違和感のない花を選びながら、営業用の笑顔を添えて返答した。 「マーガレットやコスモスでしょうか。色合いが優しくて癒されるんですよね」 「僕もです。まだ場所が余ってるから今度植えてみようかな」  よっぽど花が好きみたい。顔半分に前髪が被さっているので表情は読み取れないが、慎の口元には嬉しそうな笑みが滲んでいる。 「米里さんは趣味ってありますか? 精神の安定は眠りの質を高めるんです。何か好きな物はありますか?」  好きな物って、何だろう? あまり考えたことがなかった。いや、自分の好みを口にすることができなかった、という方が正しいかも。健悟と付き合っていた頃は、全て健悟に合わせる日々だった。食べ物も、飲み物も、服の好みからシャンプーの香りまで、全部。 「……米里さん? どうしました?」 「いえ別にっ、何でもありません」  ふと甦った嫌な記憶を、花梨は慌てて振り払った。 「食べ物でもいいんですか?」 「何でも結構ですよ」  微笑みながらゆったりとした調子で慎が言う。 「スイーツやお酒はもちろん控えた方が体に良いですし、依存しやすいので注意が必要ですが、楽しみの1つとしてほんのちょっと食べたり飲んだりするぐらいは問題ありません。頻度や量をきちんと管理すれば大丈夫です。僕もたまにお酒は飲みますしね」  ちょっと意外だった。医者は体に害となるものは一切口にしないと思っていたが、そうでもないらしい。急に親近感が湧いた。同時に、温厚で花好きな彼がどんな酒を好むのかという興味も。 「先生はどういうお酒がお好みなんですか?」  自分が答える側なのをすっかり忘れて、花梨はたずねた。少し悩みながら慎が白状する。 「ん~……甘口のものが多いかなぁ。リンゴやイチゴのワインとか。辛いの苦手なんですよね。僕、酒は強くないものですから」 「じゃあ、フルーツカクテルとかどうです?」 「飲んだことありませんが、おいしそうですね」 「私の会社、本業は輸入業ですけど市内に直営のレストランやバーがあるんです。私は企画部なのでいろんなイベントを開催するんですけど、直営店でたまにカクテル祭をするんですよ。先生も今度いらっしゃいませんか?」 「楽しそうだなぁ」 「各国のフルーツで作ったカクテルと音楽をコラボした人気のイベントなんですよ。あっ、先生はどんな音楽が好きですか?」  対面から、クスクスと笑い声が響いた。 「これじゃ、僕の方がカウンセリングされてるみたいですね」 「わっ、ごめんなさいっ」 「いえ、嬉しかったですよ、僕のことを色々きいてくれて」  彼のそよ風のような優しさが胸に染み込んでくる。上品に紅茶を一口飲んで、慎はイメージ通りの答えを返してきた。 「僕はクラシックが好きで、昔はコンサートにも行きました。クラシックは副交感神経を高める効果がありますので、睡眠導入にいいんですよ。米里さんも試してみて下さい。ちょうど今週末にキタラで定期公演がありますから、どなたか誘って鑑賞してみたらどうですか?」  花梨は苦笑いした。 「付き合ってくれそうな人が周りにいませんよ。クラシック好きの知り合いなんて、今のところ先生だけですもん」  本当のことだった。周りにクラシックを聴くような人間はいないし、自分もお金を払ってヴァイオリンやらフルートを聴く考えがなかった。不思議なことに、他人はこちらに可憐で清楚なイメージを抱いているらしく、大学生の時に参加したコンパでも、ボンジョビやエアロスミスなどのロック系音楽が好きだと言ったら凄く驚かれた。あまり自分の好みを正直に言わなくなったのは、その頃からだ。 「女性の独りクラシックって、ちょっと痛い感じがしません?」  花梨としては茶化したつもりだったのだが、慎は真面目に言葉を受け止めたらしい。なるほどというように頷くと、改めて問いかけてきた。 「じゃあ、僕と一緒に行きませんか?」 「はっ!?」  心臓がドキンと跳ねた。まさか慎からコンサートに誘われるなんて。あまりに唐突だったので、どう答えていいのかわからず花梨は呆然と対面を見つめた。  頭ではちゃんと理解している。この誘いに深い意味はないのだと。治療を進める上で有意義だから、医師として付き合ってくれるだけのこと。あえて治療という言葉を出さないのは慎の気遣いだ。  なのに、心の方がデートの誘いかと変な勘違いをしてしまう。初診で訪れてから、ずっとこんな調子だった。もう恋愛なんてしたくないと冷え固まっていた気持ちが、慎と話をしているうちに柔らかくほぐれ、帰る頃にはいつもほっこりと温まっていた。診察時間は30分程度で、最近の出来事を話すだけなのに、その逢瀬を心待ちにしている自分が確かにいる。  物静かに相槌を打つ慎の優しい雰囲気に癒された。思った事や考え方を否定することなく、寛容に、広い心で受け止めてくれて嬉しかった。一緒にといると渇いていた気持ちが満たされるのだ。今もそう。ドキドキと高鳴る甘やかな鼓動が勢いよく全身に血を巡らせ、胸も頬をも熱くさせている。  花梨は密かに深呼吸しながら、気分を落ち着かせた。慎にとってこれは単なる仕事の延長なのだと勘違いしそうになる自分に言い聞かせ、熱を帯びた頭を冷やしてゆく。 「米里さんの言う通り、独りクラシックってちょっと虚しいですよね。実は僕も前からそう感じてました。米里さんがコンサートに付き合って下さるなら心強いです」  優しい慎の心遣いが、せっかく落ち着かせた気持ちを震わせた。つい喜んでしまいそうになる心を宥めながら、花梨はなんて返事をするべきか悩んだ。 「先生と一緒にコンサート……ですか……」 「ああっ、すみませんっ、勢いで誘ってしまって。こんな冴えない中年と一緒なんて嫌ですよねっ」 「そんなことありません!」  自分でも驚く程の大声だった。花梨は慌てて口を閉じたが、声は森の奥まで響いている。慎は凝然と固まっていたが、とろけるように表情を緩めた。
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