闇の向こうから

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「私が別れた事を後悔してる? そんなわけないでしょッ、散々私を苦しめておいて何言ってるの! 今だって私をつけ回してるじゃない! ストーカーみたいにコソコソと監視してッ、気持ち悪いったらありゃしない!」 「つ、つけ回りてるわけじゃねぇよっ」  指摘されて余裕を失くした健悟が、あからさまにうろたえている。表情こそ笑顔を保っているが、頬が苦しそうに引きつっていた。 「べ、別にお前を監視するとかじゃなくてっ、ちょっと話しがしたいと思ったから家に寄っただけだろっ。ストーカーなんて大げさなんだよっ」 「家に寄ったっ!? 勝手に来たわけ!?」 「いいだろ、寄るぐらい。お前、いなかったんだし。平日なのに夜遅くまで出掛けてたんだな」  怒りと恐怖でめまいがした。この人は、何もわかってない。自分が相手にしてきた事を、ちょっと行き過ぎた愛情表現だった、程度にしか思ってないのだ。こちらの気持ちも考えず、自分の都合でふらりと家に寄る無神経な振る舞いを"大げさ"という言葉で片付けようとしている。  あの頃と同じだ。今も、自分の許可なしに平日出掛けたことを空気で責めてくる。健悟の束縛にがんじがらめになっていた時の感覚が、全身に甦ってきた。凍りついて声が出なくなりそうになる寸前、鼓膜の奥に慎の声が聞こえた。優しく名前を呼んでくれる愛しい声の記憶が、凍えた体のこわばりをほぐしてゆく。慎の存在感を呼び起こしながら、花梨は気力を振り絞った。 「私が何をしようと健悟に関係ないッ、メール送ってくるのやめてよッ。あんな嫌がらせして憂さ晴らしのつもりッ? 最低!」 「メールって?」 「とぼけないで!」  何のことだと言わんばかりの健悟の態度に腹が立つ。花梨は一歩も引かず一気にまくしたてた。 「いつも真夜中に送ってきてるメールのこと! アドレス誤魔化してもムダだから! 全部保存してあるんだからねッ」 「おい、何のことだよっ。俺はメールなんか送ってないぞ」 「ウソつかないでよ! 先生と付き合ってるのが気に入らないみたいだけど、健悟に口出しされる筋合いない!」 「あ? 先生と付き合ってる?」  途端に健悟の眼つきがとガラリ変わった。声がグっと低くなり、かもし出す空気に刺々しさがこもる。意志に反して、体がビクリとはねた。花梨は頭上を睨みながら、恐怖を拳で握りしめた。 「ふ~ん、俺と別れてまだ2ヶ月も経ってないのにもう新しい男がいるのかよ。どうりで強気なわけだ」  一歩前に出た健悟から逃げるように、花梨は一歩後ろに下がった。背中を押し止めた壁に、いきなり健悟がドンッと片手をついた。 「きゃっ」 「そいつ、どこの誰だよ?」  間近に迫った健悟の顔から、反射的に花梨は目を逸らした。こっちを見ろとばかりに顔を覗き込んできた健悟が、不満の滲む目で睨んでくる。 「先生って、どっかの学校の教師か?」 「……ッ」  黙っていれば健悟はどんどん不機嫌になる。なぜ答えない? なぜ言いたくない? なぜ俺に逆らう? そう無言で責めてくる。わかっているからこそ、花梨は頑なに慎の事を隠した。健悟の身勝手な怒りの矛先が、慎に向かうような気がして怖かったから。 「……とにかく、これ以上私に付きまとわないで」  可能な限り冷静に、自分を奮い立たせて、花梨は理不尽な健悟の憤りに抵抗した。 「これ以上私を監視したり嫌がらせのメールを送ってきたら、会社の人事部に訴えるだけじゃなくて警察に行くから」 「警察っ……!?」  国家権力の名を聞いて、健悟がギョっとした。自分がどう見られるか、極端に気する性格は変わってないらしい。仕事ができて面倒見がよい人、という印象を汚したくないんだろう。健悟の態度が柔らかくなった。 「やりすぎだろ。つーか俺、本当にメールなんて送ってないからな。お前の家に行ったのもたまたまで……」 「私、これから業者と打ち合わせだから」  無遠慮に健悟の言い訳を遮ると、通せんぼするように伸びる腕を払って、花梨は会議室を出た。健悟はまだ中から叫んでいたが、ドアを閉めて戯言を封じた。そろそろ広告会社の担当者が来る。早く打ち合わせの準備をしないと。花梨は早足でミーティングルームに向かい、逃げ込むようにして室内に入った。今頃になって心臓がドクドクと激しく脈打ち始める。  ねっとりと絡みつくような健悟の眼差し。  不機嫌な声。  暗く濁った眼。  圧し潰すような刺々しい空気……  吐き気が込み上げてきた。寒気で鳥肌が立つ。どうしてだろう。責められる筋合いも、新しい恋に後ろめたさを感じる必要もないのに。とにかく今は仕事に集中しようと、花梨は服ごと胸を握りしめて自分を落ち着かせた。 「……いたっ、花梨! ねぇ、大丈夫だった?」 「ミオっ……」  一瞬ビクっと肩がはねた。探していたらしい美央が、安心したように息をつく。 「突然こわい顔して松浦さんと出て行くんだもん、心配したよ」 「ごめんね……」 「わっ、顔が真っ青! ちょっとっ、何かされたの!?」 「大丈夫。それよりミオ、悪いんだけどポスターのデザインサンプルと資料を持って来てもらえる? 私パワーポイントの用意するからさ」 「あぁ、うん……ねぇ、本当に大丈夫?」 「平気だよ、ありがとう」  心境を察して、美央はそれ以上何も言わなかった。打ち合わせの準備をしにオフィスに戻る美央の足音を、花梨はぼんやりと聞いた。自分が思うよりも、健悟の呪縛に囚われていることを思い知らされた。"お前の方が俺に執着してるんだ"―――メールにそう書いてあったが、ある意味そうなのかもしれない。  未だに自分の心は、あの半年間にとらわれている。忘れていいのに、消し去るべきなのに、奥底には淀んだ健悟との思い出がわだかまっているのだ。こうしている今も、さっきの健悟とのやり取りが生々しく甦ってきた。亡霊みたいにまとわりつく記憶を払うように頭を振って、花梨は意識の中から健悟を追い出し、会議室に向かった。こんな事に捕らわれている時間はない。もうすぐ客が来る。早くパソコンを立ち上げて打ち合わせの準備をしなければ。  ある程度のセッティングが終わったところで美央が戻ってきた。健悟は上司に挨拶を済ませた後、若い社員を連れて帰ったという。同じ建物からいなくなった事実に、少しホっとした。広告会社の担当者は時間ぴったりに現れて、必要な情報を交換し合い、こちらの要望を聞いて、デザインサンプルに様々なイメージを組み入れていった。  店先の看板を見て、思わず立ち寄りたくなる美味しそうな紅茶酒のデザインという抽象的な要求にも、デザイナーは色々なアイディアを提案し、巧みに色合いや角度を変えて仕上げていった。ひとまず見本を今週中に仕上げてもらうことにして、打ち合わせを終えると急いでオフィスに戻り、ススキノ店の店長にこれから向かうと連絡を入れた。  外勤を終えて会社に戻ってきた頃には6時を少し過ぎていた。オフィスに着くなり花梨は慎に連絡を入れた。今から帰り支度をすると告げると、慎もちょうど会議が終わったところでこれから向かうという。ビルの前で待つというので、花梨は急いで身支度を整えた。パソコンを閉じて同僚達に声をかけ、オフィスから真っ直ぐにトイレに向かい、丁寧に化粧を直す。  もうすぐ慎に会える。そう思うと足取りが軽くなった。エレベーターが下がるにつれて、ドキドキと心地の良い高鳴りが胸の奥に響く。広いエントランスの奥、ガラスの自動ドアの向こうに車が見えた。通りに立ち並ぶ街路樹の脇に、黒いクラウンが停車していた。樹の横で、助手席のドアに体を預けながら、慎は空を眺めている。  今日は学会だと言っていた。相変わらず第一ボタンまできっちり閉めた白いYシャツの上に、濃紺のジャケットを合わせたラフな正装で身を固めているのはそのせいだろう。律儀に外で待っている慎の姿が瞳に映った途端、急に涙が込み上げてきた。心身を縛り付けていた重い鎖が緩み、剥き出しになっていく弱い心を、温かい安心感が包み込んでゆく。
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