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自動ドアが左右に割れた瞬間、生暖かい外気が足元から這い上がってきた。空を見上げていた慎が、ふとこちらに顔を向ける。眼鏡を覆い隠す前髪が、初夏の風に弄ばれている。半分しか顔は見えなくても、慎が優しく微笑んでいるのがわかった。ゆっくりと歩み寄ってきた長身を歩道の真ん中で見上げると、花梨は涙が落ちないうちに笑顔を作った。
「お待たせしました」
「花梨さん……お仕事お疲れ様です」
優しい声が、耳に心地よく響く。
「今朝は忙しい最中に電話してすみませんでした」
「いえ、嬉しかったですよ、朝から先生の声を聴けて。今日は先生に会えるなぁと思ったら、仕事がんばれました」
「!」
花梨としては本心を伝えただけなのだが、慎の顔がほんのりと赤くなってゆく。照れてるみたいだ。相手は10歳も年上の男性だけど、こういうところが凄くかわいらしい。
「僕も花梨さんのおかげで、退屈な会議を乗り切ることができました……あ、立ち話もなんですから乗って下さい。夕食、まだですよね?」
「まだですぅ〜、今日のご飯はカロリーメイト1本だったんですよぉ。もう忙しくて」
「だったらたくさん食べないと。藻岩に知り合いが営んでるレストランがあるんです。そこで一緒に――」
突然、イラついた声が慎の話を遮った。
「――花梨っ」
聞き馴染みのある低い声。会話に割り込んできた声の方へ、花梨は咄嗟に目を向けた。直後、驚愕しながら花梨は硬直した。
「えっ!?」
どこに潜んでいたのか、自動ドアの方からゆっくりと健悟が歩み寄ってくる。不機嫌なその眼差しは、隣の慎にも向けられていた。
「健悟っ……なんでまだいるのっ!?」
健悟は答えなかった。冷たい視線を慎に向けたまま、嘲るようにフンと鼻先で笑った。
「へぇ~……これがお前の新しい男?」
「ちょっとッ、"これ"なんて先生に失礼でしょ!」
「先生、ねぇ……」
立ち止まると、健悟は品定めでもするように慎を足元から頭の天辺まで見上げた。スーツにお金をかけてる健悟と比べれば、慎の装いが多少見劣りするのは否めない。見た目の質素さと控えめな雰囲気から、自分の方が男として勝っていると判断したらしい。健悟は小バカにしたように微笑むと、胸を張って慎に向き合った。
「どうも、松浦といいます。花梨が世話になってるそうですね、色々と」
言葉こそ丁寧だが、嫌味ったらしい喋り方で挑発する健悟は完全にケンカ腰だ。普通ならカチンとくるほど横柄な態度だけれど、慎の方はとても落ち着いている。いつもと変わらず物腰柔らかい口調で、丁寧に応じた。
「初めまして。花梨さんの主治医の西園です」
「なにっ?」
予想外の自己紹介を聞いた健悟が、驚いた顔で慎を見返した。意表を突かれたようで、二の句を継げずに沈黙している。
「花梨さんにはコンサートに付き合って頂いたり食事を作ってもらったり、僕の方がお世話になってるんですよ、色々と」
慎の物言いが気に入らなかったみたいだ。健悟があからさまに表情を濁した。敵意を剥き出しにしながら、憮然と言う。
「ふ〜ん、主治医か……んで、おたくが花梨の診察をしてるわけだ?」
「そうです。花梨さんは僕の患者さんですから」
「花梨、どこか悪いんですか?」
「申し上げられません。守秘義務がありますので」
健悟が視線を向けてきた。思わず花梨は体を強張らせた。心配している、というより自分が知りたい事を秘密にされて苛立っている感じ。寒気がした。健悟が滲み出すこの刺々しい空気が本当に嫌だ。自分たちのイザコザに無関係な慎を巻き込んでしまっているのも心苦しい。
「俺と花梨、ちょっと前まで付き合ってたんですよ」
ムっと表情を歪めて健悟が言った。
「元彼として、別れた彼女を心配するのは当たり前じゃないですか。教えて下さい、一体どこが悪いんですか?」
「言えません」
「先生は何科の医者なんですか?」
「答える必要はないと思います」
慎の態度とても柔らかいが、どんな脅しにも屈しない力強さがある。それが気に障ったのか、健悟が小さく舌打ちした。
「そうですか、わかりました」
呟いた次の瞬間、健悟が手首を掴んできた。
「だったら直接に聞きます。どっちみち話もあるんで……花梨、ちょっとこっち来て」
「イタっ」
花梨は反射的に腕を引いたが、健悟の強引な手はビクともしなかった。腕を引っ張られ、連れて行かれそうになる寸前、
「乱暴なマネはやめて下さい」
健悟の手を払った慎が間に割り込んできた。背中にかくまうように立ち塞がり、苦々しく顔を歪めている健悟と対峙する。
「松浦さんは、いつもこんなふうに花梨さんを扱っていたんですか?」
「アンタに関係ないだろっ」
「あります」
鋭い健悟の恫喝にも、慎は全く怯まなかった。見た目の印象とは裏腹に、大きくて優しい背中には、揺らめくような頼もしさが漂っている。花梨は不思議な安心感を感じながら、慎の背中にぴとっとくっついた。温かい。すごく安心する。目の前に健悟がいるのに、不安や恐怖は感じない。背中にかくまう慎もまた落ち着いて逆恨みを受け止めている。大人の貫禄ともいうべき冷静な物言いで、ゆったりと語りかけた。
「僕は彼女の主治医ですから、病を治す責任があります。花梨さんを心配していると言うなら、むしろ教えて頂きたい。心が深く傷つき、今も数々のトラウマに苦しめられ、眠ることさえできなくなった花梨さんのストレスの原因に、何か心当たりはありませんか?」
「そ、そんなもんねぇよっ」
ギラついた健悟の眼差しが責めるように向けられる。慎の背中にくっついたまま、花梨はビクっと体を震わせた。その震えを感じ取ったらしい慎が、両腕をそっと後ろに回してきた。筋肉質の力強い後ろ手に、体を優しく寄せられる。カっと顔が熱くなった。おんぶでもするようにして、慎が抱きしめてきたのだ。
「松浦さんは、花梨さんの気持ちを考えたことがありますか?」
唖然としている健悟へ見せつけるみたいに背中で花梨を抱きながら、慎は物腰柔らかくも冷やかに言い放った。
「本当に花梨さんが好きだったなら、彼女の趣味や嗜好を認め、意志を尊重し、仕事や交友関係など、彼女が大切にしているものを一緒に大事にしてあげられたはずですが」
「ハハハ、おいおい、たかが医者の分際で説教するつもりかよ」
健悟は挑戦的な薄笑いを浮かべているが、内心は痛い所を突かれて戸惑っているようだ。声が少し震えている。
「無関係の奴が俺たちの付き合いに口出しするな」
「俺たち? 花梨さんとはもう別れたんでしょう?」
「そんな簡単に割り切れるもんじゃねぇんだよ」
「割り切って下さい」
「ああっ?」
健悟の顔から笑いが剥がれ落ちた。わざと挑発しているのか、それとも無意識か、慎は真綿で首を締めるように健悟を追い詰めてゆく。
「いつまでも花梨さんに未練を残されては困ります。治療の妨げになりますので、二度とプライベートで関わらないで下さい」
「おっ、お前にそんな事を言われる筋合いねぇんだよ! いいからそこどけっ、俺は花梨に話しがあるんだっ」
「花梨さんの方にはないと思います」
「てめぇっ、殴られてぇのかッ」
「いや~、できれば暴力は控えて頂きたいですね。痛いの嫌ですし、僕、ケンカは弱い方なので。まともに殴り合ったら完全に僕が負けますよ」
ハハハと困ったように笑う慎を、健悟が苦々しく睨みつけている。器の違いを見せつけられて悔しいのだろう。拳を震わせながら歯ぎしりする様は、試合に負けた諦めの悪いボクサーみたいだ。
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