闇の向こうから

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「バカにしやがってぇ……!」  健悟の剥き出しの憎悪を浴びてもなお、慎の態度は変わらなかった。背中で愛しげに花梨を抱きしめながら、穏やかな微笑を添えて言う。 「しかしまぁ、どうしても殴りたいと言うならいいですよ。花梨さんの新しい彼氏として、あなたに殴られる覚悟ぐらいはありますので」 「新しい彼氏ッ!? 主治医じゃねぇのかよッ」 「主治医ですよ。そして花梨さんの恋人でもあります」 「恋人っ……!?」 「あれ、こういうの若い人の言葉で何て言うんでしたっけ? New彼? 違うな……旬カレ?」  一触即発の修羅場にもかかわらず、のほほんとした慎のマイペースさに健悟は毒気を抜かれて呆然としている。花梨も同じだった。急に緊張感が解けて、胸に詰まっていた息が漏れた。入れ替わるようにして、込み上げてくる愛しさに心が熱く震える。頼もしい背中に体を寄せたまま、花梨は腕を回して慎を抱きしめ返した。 「先生、"今カレ"です」 「ああ、それでした」  慎が小さく笑った。目の前で立ち尽くしている健悟を改めて見返し、こともなげに言う。 「という訳なので松浦さん、殴るなら早くして頂けますか? 僕たち、この後に予定があるんですよ。やるならパパっと済ませて頂けるとありがたいんですけど」 「くッ……!」  悔しげに顔を歪ませて、健悟は完全に黙り込んでいる。本能的に、自分が敵う相手じゃないと理解しているようだ。慎は一息つくと、興味をなくしたように健悟から目をそらした。背中の方に顔を傾け、やんわりと微笑みかけてくる。 「花梨さん、行きましょうか」 「はいっ」  くるりと体を半回転させた慎にエスコートされながら、花梨は停車している車に向かった。背後に健悟の苛立った気配を感じるけれど、恐怖心よりも、慎に愛されているという充実感の方が大きかった。ドアを開けてもらい、促されるまま花梨は助手席に乗り込んだ。慎は道端に立ち尽くして睨む健悟へ丁寧に一礼してから、ゆったりと車に戻ってきた。  本社の入り口に佇み、恨めしくこっちを睨んでいる健悟の姿を、花梨は動き出した車の窓から眺めやった。会議室で男性社員と席が隣に座るのも嫌がった健悟にとって、目の前で慎に抱きしめられる様子は耐えがたい光景だったに違いない。車窓から健悟の姿が消えてようやく、花梨はホっと息をついた。健悟の無礼な振る舞いを申し訳なく感じながら、本人に代わってお詫びしようと口を開きかけたそのとき、 「あ~……ビックリしたぁ」  慎が肩の力を抜いた。ふぅっと安堵の息を吐いて、苦笑交じりに呟く。 「本当に殴られたらどうしようって、ハラハラしましたよ」 「えっ……先生、怖かったんですか?」 「はい、とっても」  そんな気配は微塵も感じなかったが、本人の中ではちょっとした一大事だったらしい。花梨は訝しげに運転席を見返した。 「あんなに健悟を煽ってたので、私、てっきり先生って本当は強いんだろうなぁって思ったんですけど」 「まさか、僕は喧嘩なんてしたことないですし、腕っぷしも弱いです。さっきはもう、殴られるんじゃないかってドキドキしてました」 「全然そんなふうに見えませんでしたよ?」 「なら良かった。必死に強がってた甲斐がありました」  そうだろうか。強がっていたのはむしろ健悟の方だったと思う。慎から漂う年上の貫禄にのまれて、健悟の方が焦っていたように見えたけど。  いずれにせよ、健悟の態度や言葉はとても失礼だった。無関係の慎に嫌な思いをさせてしまったことを心苦しく思いながら、花梨はしょんぼりと元彼の非常識を詫びた。 「先生……ごめんなさい。健悟が色々と失礼なことを言って……」 「どうして花梨さんが謝るんですか? そんな必要ないですよ」 「でも……」 「花梨さん、そうやって自分を責めないで下さい」  真っ直ぐに前を向いたまま、慎が柔らかい物言いで訴えかけてきた。右ウインカーを出して車線変更すると、中心部を抜けて藻岩山方向へと進む。 「松浦さんの言動は花梨さんに関係ありません。さっき僕は、松浦さんに"割り切って下さい"と言いましたが、それは花梨さんにもお願いしたい」 「私にも?」 「はい。松浦さんの言動を、"自分のせいで"と考えないで下さい。彼は彼、自分とは無関係だと割り切って欲しいんです」  ギクリとした。無意識のうち、自分の意識が健悟の犯した罪に癒着していることを慎に見抜かれて、返す言葉を失くしてしまった。束縛という棘は、ずいぶんと深い所まで刺さり込んでいたらしい。花梨は溜息をついた。改めて、自分の精神が未だ健悟の支配下にいることを思い知らされる。 「花梨さんは何も悪くありません。松浦さんもです」 「健悟も?」  意外な言葉に驚いて、花梨は慎の横顔に問い返した。 「先生にあんな失礼な態度を取ったんですよ?」  慎はクスクス笑った。サイドミラーを確認しながら石山通に入り、藻岩山の方へ向かう。 「松浦さんのああいう挑戦的な態度は、自信のなさの裏返しでしょう。花梨さんへの束縛も、支配しようとかいうのではなく、お気に入りの玩具を独り占めしたい幼児と同じです。好きだから、自分だけのものにしたい。誰にも触らせたくない。相手にも自分と同じ気持ちでいて欲しい……その想い自体に善悪はありません。松浦さんは真剣に花梨さんを愛していたんだと思いますよ。ただ、その方法が間違っていただけです」  別れ話をした時の、「お前が好きだっただけなのに」と言った健悟の愕然とした顔が脳裏に浮かんだ。当時は身勝手だと腹が立ったけれど、あの言葉は健悟の純粋な本音だったのかもしれない。 「僕はそう思うんです。なので花梨さんも、彼は"愛し方を知らない人だったんだ"と割り切って下さい」 「……やってみます……」  花梨は闇が濃くなり始めた空をフロントガラス越しに見上げ、重たい息をついた。冷静に心理分析を述べる大人な慎の側にいると、自分がちっぽけな人間に思えてくる。やってみるとは言ったものの、正直、心から健悟を許してあげられるかどうか、全く自信がなかった。  慎は気を使ってくれたようで、それ以上健悟の話に触れなかった。なんでもこれから行くレストランは、友人の妹夫婦が最近オープンさせた店で、食事に来てと言われていながら開店祝いを出したきりになっているという。パリで修行した友人の妹と、現地で知り合ったフランス人の旦那が生み出す創作料理は雑誌にも取り上げられ、リーズナブルにフレンチが食べられると評判らしい。  その高い評価を裏づけるように、店内は満席だった。慎が予約を取ってなければ入れなかっただろう。スポットライトに照らされた森林が見える窓際の席、一番奥に1室だけある完全個室に通されて、まず目に入ったのはクロス掛けのテーブルに咲くバラの花束だった。四角いガラスの花瓶に飾られたバラの束は、同じようにガラスの容器に入ったロウソクと一緒に、料理の邪魔にならないよう置かれていた。  真っ赤なバラが匂わす艶っぽい気配と、シャンデリアの下に散るロウソクの明りが、とてもロマンチックな雰囲気を醸し出している。花梨は口から心臓が出てきそうな程ドキドキした。オシャレなムードが漂う個室で話したい事と言えば、1つしかない。  プロポーズされたらどうしよう。どう返事をしたらいいのか―――まだ言われてないけど、とりあえず先に悩んだ。せっかく伝えてくれた慎の好意に、無言で返すわけにはいかないし。  だた婚約はちょっと早い気がする。付き合ってまだ日が浅い。確かに慎のことが好きだけど、もう少しお互いを知ってからの方がいいと思う。けれど、それは25歳という若さがあるからで、10歳も年上の慎からしてみれば十分結婚に適した頃だ。  さて、とても好きだけど結婚するにはもう少し時間が欲しいと、簡潔に、やんわりと、相手を不快にさせずに伝える巧いセリフはないものか―――席に着くなり次々に運ばれてくる料理を笑顔で口にしながら、花梨は必死に考えた。  道産野菜を使った前菜に始まり、料理はどれも美味しく、特に今食べているラム肉のソテーと付け添えの野菜煮込(ラタトゥイユ)は絶品だけど、正直なところじっくり味わう余裕はない。 「花梨さんはラム肉大丈夫でしたか? シェフに任せてしまったので、もし苦手なものがあったら教えて下さいね。取り換えてもらいますから」 「お気遣いなく! 私っ、ラム肉大好きです! このラタトゥイユ美味しいですねっ」 「この野菜煮込み、そういう名前なんですかぁ。花梨さんは難しい料理をご存じなんですね」  フォークで掬い上げた野菜を見ながら、慎が感心したように言った。少し気が緩んで、花梨は小さく笑った。 「結構メジャーですよ、ラタトゥイユ……先生は普段どんなお食事してるんですか?」 「どんな食事……ん~……」  低く唸って、慎が首を傾げた。 「特にコレといったこだわりはないですね。この間は花梨さんの手作りサンドイッチで贅沢な朝食でしたが、普段は抜くことが多いです。勤務医時代は病院内に食堂があったので便利だったんですが、今は作るのが面倒で食べないこともありますね」 「じゃ、今度お泊りする時には先生が食べたい物を作ります。何がいいですか?」
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