闇の向こうから

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 前回泊めてもらった時は、慎がパスタを作ってくれた。なので次は手料理を振る舞おうと花梨は決めていた。  料理上手というわけではなかったけれど、外食やデリバリーを嫌った健悟のせいで、週末や連休は常に料理を作る羽目になった。でも、悪い事ばかりじゃない。半年間の強制労働は苦労も多かったが、怪我の功名で料理の腕が格段に上がった。  食事を作るという申し出を喜んでくれると思ったのに、慎は返事を濁したままフォークを皿に置いた。溜息にも似た息をつくと、口重たそうに唇を割る。 「花梨さん……その事なんですが……」  一体どうしたんだろうか。慎はためらいがちに切り出した。 「実は、今朝電話で言った話したい事というのは……その……しばらくの間、宿泊を伴う付き合い方は控えたいと思いまして……」 「えっ?」  花梨はフォークを落としそうになった。あまりにも唐突な話だった。誘われるならまだしも、まさか拒絶されるとは。プロポーズかもしれないという早とちりを恥ずかしく思う余裕すらなかった。 「宿泊は控えたいって……」 「すみません」  愕然と慎を見つめながら、花梨は自分の行動を思い返した。何がいけなかったんだろう。この間はあれ程熱く求めてくれた慎に、夜を共に過ごしたくないと思わせるどんな失敗をしたかと、焦る頭で考える。  借りたTシャツもシーツも使った物は全て洗濯した。浴室の排水溝も髪の毛一本残さず綺麗にしたし、朝食を作った後にキッチンも片付けた。ならば、あの時の抱かれ方に問題があったのかも。確かにあの夜は、慎に1つもメリットがなかった。  経験豊富な大人の女性なら、あんな場面でも上手に男性を喜ばせることができるのかもしれないが、そんな技量はなく気持ち良かったのはこちらだけで、我慢を強いられた慎の方は苦しかったと思う。挙句、薬と快楽の余韻で寝落ちしてしまったのだから、愛想を尽かされても仕方ない。 「先生……」  花梨は細い声で呟いた。自分に非があるとわかっていても、これ程はっきりと拒否されてはさすがにへコむ。慎が優しい分だけ、今の言葉は鋭く胸に刺さった。 「あの、私……」  先の言葉が続かない。謝ればいいのか、それとも笑って流せばいいのか、正解がわからず花梨は視線を泳がせながら沈黙した。慌てた慎の弁解にも、どこか後ろめたい響きがある。 「あっ、違いますよっ。花梨さんと居たくないとか、そんなんじゃないんです。むしろこれは僕の問題なので……本当は僕だって、花梨さんと一緒に夜を過ごしたい……でも、今はそれができない状況なんです」 「仕事が忙しいからですか?」  きかずにはいられなかった。本当は一緒に夜を過ごしたいと言いながら、それができない深刻な事情とは何なのか。姿勢を正して、花梨は身構えた。なんだか嫌な予感がする。 「……すみません……もう少し僕に時間を下さい。そのうち全て話しますので」  曖昧な慎の返事が、嫌な予感を増幅させた。まるで、不倫中の男が妻とは離婚するから待ってくれと頼むような口振りに、胸がザワついてくる。いや、よく考えればありえない話ではなかった。申し訳なさそうに俯く慎を見て、花梨は自分の迂闊さにハっとした。勝手に慎をフリーだと思い込んでいたけれど、一人暮らしだからといって独り身とは限らないではないか。  見た目は地味で華やかさこそないけれど、慎は十分に魅力的な人だ。包み込むように優しく、真面目で、怒りや欲をコントロールできる強さを持った大人の男性。しかも開業医とくれば、そのブランド力だけで十分に女を引き寄せる。  さすがに離婚協議中はないとしても、付き合っていた女性とコジれて修羅場を迎えている可能性ぐらいはある。誠実な性格だから、他に好きな人ができたと正直に打ち明けて、相手の怒りを買ったのかもしれない。 「本当にすみません……」 「そんなに謝らないで下さいよぉ」  感情とは真逆に、自分でも驚くほど明るく答えていた。 「私はちっとも気にしてませんから。お泊りの楽しみが少し先に延びるだけのことです」 「花梨さん……」  半年間、常に健悟の気持ちを忖度させられた苦い経験から、慎の普段と違う雰囲気を敏感に感じ取っていた。落ち込む心に反して、顔には自然と笑みが浮かんでいる。   「普通のデートなら問題ないですよね?」  花梨はさりげない口調で誘いかけた。 「だったらこの後、帰る前に夕涼(ゆうすず)みしませんか?」 「夕涼み?」 「帰り道にちょうど、絶景スポットがあるんです。ほら、ロープウェイに通じる坂道を登ると、山頂にプラネタリウムあるの、先生ご存じありません?」 「知ってます」 「その途中に森林公園があるんですけど、広い駐車場から街並みが見えて、花火大会の時なんか最高の穴場スポットなんです。食事の後、一緒に行きませんか? きっと夜風が気持ちいいですよ」 「いいですね、行きましょう」  安堵したように表情を緩めた慎を、花梨は複雑な気分で見つめた。笑顔の裏にモヤモヤした気持ちを隠しながら、食べかけのラム肉を口に運ぶ。  本当は"宿泊を伴う交遊ができない事情"とは何か、もう少し粘って聞き出したかった。そうしなかったのは、しつこい女だと嫌われたくない恐怖感と自制心が働いたからだ。  慎が待って欲しいと言うのだから待つしかないと、釈然としない気持ちで不満を胸の奥に押し込んだ。
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