闇の向こうから

8/12
前へ
/42ページ
次へ
 コース料理のシメは、レアチーズケーキの桃シャーベット添えだった。フレンチでは食後のデザートを"デセール"と呼ぶらしい。運んできたスタッフがそう言っていた。  沈黙を恐れるかのように花梨は最近の輸入食品事情について話した。ブリュターニュ半島ゲランドの塩田で作られた塩が人気なことや、イタリア産の熟成生ハムを扱う専門店が増えたことなど。絶え間なく流す面白味のない話も、慎は楽しそうに聞いてくれた。  会計の前、店のオーナーでありシェフでもある慎の友人の妹が挨拶にきて、他愛もない世間話を簡単に交わした後、お土産にチーズをくれた。今日はお酒抜きのディナーだった為、家飲み用のおつまみにと気を使ってくれたのだ。  今回は開店祝いに付き合ってもらったからと、食事は慎がご馳走してくれた。妹夫婦に見送られて店を出てから、来た道を戻りしばらく進むと、ロープウェイ乗り場の看板が見えてくる。そこを左折して山肌を沿う坂道を上がると、T字路にぶつかった。  花梨は左に曲がるように伝えて、外灯が点々と灯る緩やかな坂道を上った。有名なデートスポットと反対に位置する森林公園に、人の姿はなかった。平日の午後9時半、美しい星空が広がる夜に、わざわざ遊具しかない公園にくるカップルはいないだろう。  転落防止用の柵が伸びる駐車場と背中合わせに、山と一体化した公園が広がっている。程よく木々を間引きした敷地には、ブランコや滑り台の他、ロープを網目状に張り巡らせた遊具が点在していた。  日中は子供連れの家族が多いここは夜景スポットの1つで、より街の光が引き立つように、闇を照らす物は外灯と自動販売機が1台あるだけだった。おかげで駐車場からは、宵闇の中に敷き詰められた光の街が色鮮やかに見える。  夜の街並みに向かって車を停めると、花梨は慎と一緒に外に出た。途端に涼しい夜風がどこからともなく吹き流れてくる。ワンピースの裾がふわりと巻き上がり、慌てて腿の所を押さえた。 「花梨さん、寒くないですか?」  隣に並んだ慎の気遣いに、花梨は笑顔で応じた。 「大丈夫です。むしろ気持ちいいぐらいで……うわぁっ、スゴイ!」  眼下に広がる夜の街並みは、濃紺のベルベット生地に散りばむ金粉のような輝きを放っていた。立ち並ぶ高層マンションとビル群の窓明かりが幾筋も光の柱を描き、その周りに金色の粒が果てしなく広がる様は、広大なタンポポ畑を彷彿とさせる。花梨は柵に手をかけながら、宵闇の中に浮かぶ美しい夜の街を眺めた。 「私ここに来たのは2回目なんですけど、前はちょっと曇ってたんですよね。今日は晴れてるから街並みが良く見えますっ、めちゃくちゃキレイ!」 「本当だ、鮮やかな夜景ですね」    こうして美しい光の景色を見ていると、心の中でくすぶる悩みが取るに足りない些細な事のように思えた。壮大な星空の下に広がる眩い街から、優しい夜風が吹いてくる。それまで胸の奥で燻っていた不満が、吹き飛ばされたみたいに消えていった。 「花梨さん、あそこに夏の大三角が見えますよ」 「は? 三角?」 「あっち、テレビ塔の方です」  慎が指さす方向を、花梨は視線で辿った。空に向く指先の遥か奥には、夜闇の澄んだ大気に無数の星が散らばっている。慎は楽しそうな様子で夜空を見上げながら、前髪ごと眼鏡を押し上げた。 「わかりますか? あそこに琴座のベガがあって、横に白鳥座のデネブ、下にワシ座のアルタイルがあります。この3つの星を結んで夏の大三角と呼ぶんですよ」 「星座ですかぁ。へぇ~、どれどれ……」  花梨は視線で夜空を掻き混ぜた。濃密な闇が覆う空には、砂金のように細かな星々が広がっている。 「星座を見つけるのって難しいなぁ……先生はお花だけじゃなくて星にも詳しいんですね」 「天体観測も趣味なんです。最近は忙しくて行けてないですが、昔は1人で山に登って望遠鏡から星を見ましたよ」  少し照れくさそうに微笑んで、夜空を見ながら慎がしみじみと語る。 「星を見てると落ち着くんですよね。非日常的な世界を堪能できるんです。自然と一体化したみたいで、すごく癒されるんですよ」 「ハハっ、面白い」 「ええ、面白いですよ」 「いえ、先生のことです」 「僕ですか?」  意外そうに自分を指さす慎を見返して、花梨は小さく笑った。 「だって小学生みたいなんですもん。ガーデニングに、天体観測……まるでアサガオ育てて絵日記つける夏休み中の子供みたいで、面白いなぁって」 「ハハハっ、確かに言われてみればそうですね」  声が途切れた瞬間、柔らかい夜風が吹き抜けた。慎と並んで見上げた星空の下には、宝石を散りばめたような光の街並みが、静かな輝きを放って果てしなく広がっている。  この美しい景色を慎と一緒に見ていることが嬉しかった。同じ時間、同じ景色、同じ空気を共有しているだけで、不思議と幸せな気持ちにさせられる。夜風で少し冷えた体がほっこりと温められてゆくのを感じながら、花梨は光の街と夜空を交互に眺めた。 「ねぇ先生」 「はい?」 「夜景って、なんだか星空みたいですね」  眩い光の粒が闇の中に散りばむ様子は、どこか星空に似ている―――何気く感じたままを口にした、その時だった。 「――ッ!!」  突然、慎が胸を押さえて地面にガックリと膝を着いた。 「先生っ!?」  花梨は息を引きつらせた。慎は片手で柵を握りしめたまま、もう片方の手で胸を握り締め、荒々しい呼吸を繰り返している。  花梨は咄嗟にしゃがみ込んだ。発作を起こしたんだろうか。心臓に持病があるなんで聞いてない。だがYシャツごと胸を握り締めた手は激しく震え、過呼吸を起こしたみたいに息を乱す様子は尋常ではなかった。 「先生ッ、大丈夫ですかッ!? しっかりして下さいッ」 「うッ……はあッ……!」  柵に捕まり、うずくまる慎の口から苦鳴が漏れる。花梨は崩れ落ちそうな慎の体を支えた。ハァハァと荒い呼吸を繰り返す体は小刻みに震えながらも、熱く火照っていた。筋肉質の背中が、緊張で強張っている。吐き気を堪えるように口を押さえた慎の顔は、外灯の心許ない明かりでも明確に見て取れる程に蒼白していた。  とにかく一旦車に乗せようと、花梨は取り乱しそうになる自分を必死に落ち着かせ、慎の背中を支えながら立ち上がった。 「先生ッ、車に戻りましょう! 私につかまってッ」
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

43人が本棚に入れています
本棚に追加