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慎はクスクス笑っていた。花梨の切ない喘ぎ声には応じず、一方的に愛撫してゆく。首筋を噛んでは舌先で舐め上げ、そのまま一気に耳まで辿ると、今度は耳朶の縁をなぞるように動いて聴覚をもてあそんだ。巧みに動く舌先が耳の奥に入り込んでくると、全身の産毛が逆立つような快感が体の奥から沸き立ってくる。
「やっ、ああっ……!」
甲高い声が狭い車内に響く。その甘くも切なげな嬌声は、男なら誰もが理性を失う程に官能的な声だったが、慎の心には響かなかったらしい。
「――ここまでにしておくか」
苦笑交じりの呟きが、唾液が絡まる濡れ音と共に伝わった。途端に慎が体を起こして離れてゆく。
「ハァっ……!?」
花梨は呆然と頭上を見つめた。恥ずかしさと戸惑いで、体がすくんだ。ここまで高ぶらせておいて、なぜやめてしまうのか訳がわからなかった。こんな中途半端に投げ出されるぐらいなら、いっそ犯して欲しいとさえ思う。もちろん、口が裂けても言えないけれど。
「あ……先生……?」
乱れた呼吸を整えもせず、花梨は視線で問いかけた。頭上から見下ろす慎は相変わらず優しい笑顔を浮かべている。座席レバーを引いて体ごとシートを引き上げると、素早く運転席に戻った。
「すみません。花梨さんが可愛くて、ついムチャをしてしまいました」
むしろ、とことん無茶をしてくれたら良かったのに。乱暴に服を剥ぎ取り、抵抗力を奪って、強引に抱いて欲しかった。慎に愛されたかったのだ。もっと貪欲に求められたかった。慎は無欲な程に穏やかで優しいけれど、今はその優しさがじれったい。
「家まで送ります」
「え?」
「どこか寄って行きたい所でもありますか?」
「いえ……」
「じゃあ、花梨さんの家に行きますね」
先生の家に行きたい―――喉まで出かかった言葉を花梨は飲み込んだ。一体どういうつもりなのか、慎の考えが全く読めなかった。シートベルトを締めた慎は、何事もなかったようにエンジンをかけて車を発進させた。何か慎の欲情を消し去るようなミスを犯したか? それとも、素直に体を許すか試されたのか……。
うねる夜の山道を下り、石山通を左に折れて真っ直ぐに自宅へ向かう慎の横顔を見ながら、花梨は戸惑った。いたずらに弄ばれた体が熱く、ソワソワとむず痒い。なのに慎は平然とハンドルを操っている。
取り憑かれたように求めてきたと思ったら、急に興味をなくしたみたいに突き放すそこに、いつもの包み込むような愛情は一切感じられなかった。それでも慎に愛されていると信じたくて、自分の想いを知って欲しくて、花梨は勇気を振り絞りながら声を押し出した。
「先生……」
「何ですか?」
前を向いたまま、慎は声だけで応じた。前髪が覆う鼻の下、形のいい唇には薄っすら微笑が滲んでいる。その半分だけの笑顔を見つめて、花梨はそっと訴えた。
「私、先生が好きです、とっても……だから、少しぐらい強引でも大丈夫ですよ」
「……」
伸びたゴムが戻るみたいに、慎の口元からすぅっと笑み消えた。これ以上の会話を拒むように口を閉ざすと、どこか物思いに耽っている様子で、ぼんやりハンドルを遊ばせている。継ぐべき言葉がみつからず、花梨はワンピースを握りしめて、息苦しい沈黙に耐えた。
どうして何も言ってくれないんだろう。普段なら、顔を赤くして静かに照れるか、気持ちを察して微笑みながら「ありがとうございます」と受け止めてくれるのだが。
豊平川に架かる南19条橋の看板が見えてきた。右折のウインカーを出し、赤信号の前で停車する。通り沿いに立ち並ぶ軒先のネオンで、視界はヘッドライトがなくても見えるぐらい明るい。目の前の横断歩道を行き交う人々を、慎はぼんやり眺めている。
その横顔をチラリと盗み見てから、花梨は逃げ出すように前を向いた。やっぱり、言わなきゃ良かった。いやらしい奴だと引かれてしまったかも―――どっぷりと落ち込んだ直後だった。不意に、膝の上に置いた手を慎に握られた。
「!」
弾かれたように花梨は運転席を見た。慎は変わらず前方を向いている。だが、その顔には柔らかい微笑が戻っていた。重なる慎の掌から、温もりが伝わってくる。キュっと手を握りしめてきた慎が、通行人を眺めながら静かに言った。
「僕も、花梨さんが好きですよ……たぶん、自分が思っている以上にね」
信号が青に変わると同時に、慎が右手でハンドルを切った。片手運転は不自由だろうに、それでも慎は握った手を離さない。肌の感触を確かめるように親指の腹で手の甲を撫で、拳の溝から指を絡めて上から強く握り締めてくる。花梨も拳を反転させ、慎の手を握り返した。これだけで十分だった。言葉なんてなくても、慎の気持ちは伝わってきた。
結局手を繋ぎ合ったまま家に着いた。車を降りて、窓が開いた助手席側から花梨は夕食のお礼をした。次の診察予定日は来週で、泊まらないので手料理だけご馳走したいと伝えると、慎は「楽しみにしてます」と言って微笑んだ。ゆっくりと発進した車のテールランプを見送ってから、花梨は家に戻った。
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