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鍵を開けてドアを引くと、鼻に馴染んだ芳香剤の香りがした。いつも迎えてくれる静かな暗闇が、今日はちょっぴり寂しく感じられる。それにしても、慎は大丈夫だろうか。普段と違う妙な様子を心配しながら、花梨は電気をつけた。
1LDKの部屋は大学生時代から変わってない。ソファにバックを置いて、風呂場に直行してシャワーを浴びる間も、ずっと慎の事が気になった。あんなに苦しむなんて、深刻な病気なんじゃないだろうか。
心療内科とは言え慎は医者だから、発作時の対処は心得てると思う。さっきも、こちらがパニックになっている隙に発作を止める薬を飲んだのかもしれない。ならば、その後の妙な様子は副作用? 強い薬の中には、麻薬と同じ成分が含まれる物もあると聞く。いつもと少し違う慎の様子は、その所為だったのかも。
いずれにせよ、今度会った時にきちんと話を聞こう。どこが悪くて、どんな治療をしていて、経過はどうなのか。もし発作が起きたら、自分は何をすればいいか指導を受けようと思った。少しでも慎の役に立ちたいから。
熱いシャワーで不安と体の卑猥な火照りを洗い流した後、花梨は急いで寝る用意を済ませた。処方された薬を服用しつつ、7時間は睡眠時間を確保するよう言われている。花梨はきちんと言いつけを守っていた。もう11時を過ぎていた。起床は7時なので結構ギリギリ。顔に保水液と乳液をパパっと付けて、薬を飲んでから電気を消した。
もう少し肌の手入れをしたいけれど、今は忙しくてそれどころじゃない。入社して初めて採用された自分のイベント企画は、来週末に開催が迫っている。明日も仕事が山積みだ。心の栄養補給にと、楽しみにしていたお泊りができなくなったのは残念だが、慎が宿泊を伴う付き合い方を拒んだのはおそらく、あの持病が原因なんだろう。優しい人だから、迷惑をかけたくないと思ったのかもしれない。
布団に入っても、慎の手の余韻がまだ拳に残っている。ふと意識を向けると、体のあちこちに沁みた慎の愛撫の名残りが一気に甦った。熱い吐息と一緒に入ってきた肉厚の舌の感触、首筋を噛んだ歯ざわり、胸の上で踊った手の力強さと、太腿の付け根まで迫った指の蠢き―――ジワジワと下腹部の奥から広がる熱い痺れを感じながら、うとうとしていたその時。
ドンッ、ドンッ、ドンッ――!!
ドアを叩く音が意識を弾いた。
「――っ!?」
花梨はビクっと体を震わせた。まどろんでいた意識が覚醒する。一瞬夢かと思ったが、ノック音は現実だった。
ドンッ、ドンッ、ドンッ――!!!
「な、なんなのっ?」
叩かれているのは明らかにうちのドアだ。ノックなんて軽い響きじゃない。まるで殴りつけているかのような重くて激しい打音だ。近所のオヤジが酔っ払って自宅と間違えているのか? 布団に包まって、静寂の中から外の気配を探ろうとした次の瞬間、
「――オイっ、居るんらろっ!」
訪問者の正体がわかった。
「健悟っ!?」
花梨は飛び起きた。聞こえた声は間違いなく健悟のものだった。酔っ払いという点は正解だったらしい。呂律がうまく回っておらず、舌足らずな物言いには酒の匂いが漂っている。
「ぅおいっ、出て来いってぇ!」
怒鳴り声の後にインターホンが激しく鳴った。何度も繰り返されるベル音が苛立たしげに反響している。花梨はそっとベットを出ると、リビングからドアに向かって声だけ飛ばした。
「帰って! 今何時だと思ってるの!? 近所迷惑だから!」
「いいから開けろってぇ!」
ドアを開ける気なんてサラサラなかった。開けたら最後、何をされるかわからない。性格的な難はあれど、健悟は決して世の中に迷惑をかけるような分別のない男じゃなかった。間違っても酒の力を借りて夜中に押しかけ、騒ぎを起こしたりする人ではない。
世間体を気にする性分で、自分磨きに余念がなかったナルシストの健悟が、我を忘れる程に酔って暴れるとは、よほど慎とのやり取りがこたえたんだろう。怒鳴り声にも、濃厚な憤怒と焦りが色濃く滲んでいる。
「なんれ俺がぁッ、こんな惨めな思いしなきゃなんねぇんらよッ!」
ぶつけ所のない怒りをドアに向けて、健悟が叫んでいる。
「さっきの医者とよろしくヤってんだろッ、そいつ出せよぉッ」
「やめてってば! もう帰って!」
花梨はうんざりと言い放った。健悟は自分の身から出たサビが、恋人との関係を腐らせた事にまだ気づいていない。消化しきれない不満と怒りを全てこちらにぶつけ、ドアを殴って怒鳴り散らすそこに、相手を傷つけた反省は感じられなかった。取り上げられた玩具を返せと床に転がり、手足をバタつかせてダダをこねる幼児と同様、口汚く罵りながら薄いドアを殴り続けている。
「早く男出せってぇ! 2人で俺に土下座して詫び入れろぉッ」
「……ッ」
「なにシカトしてんらコラァッ、新しい男ができたら俺は用済みかよぉッ」
「……ッ」
「カリ~ンっ、好きなんらよぉっ……お前の事が好きなんらってぇっ……そんぐらいわかれよぉ!」
「……」
「お前が好きだっつてんらろぉッ。何とか言えよッ、クソ女がぁ!」
花梨はベットに戻った。こんな状態でまともな話などできないし、そもそも話す気もない。もう警察に頼ろうと思った。通報なんてしたら健悟の経歴に傷がつき、社内評価にも当然響く。それを考えたからこそ、迷惑メールだって警察に相談せずひたすら我慢してきた。けれどもう限界。
枕元に置いたスマホを取って、花梨はキーパットを開いた。110の順にボタンを弾こうとした寸前、ブルっと機体が震えた。
メールを受信したのだ。
「なッ……なんでッ……!?」
いまだにドアの奥からは健悟の怒鳴り声が響いている。自分を罵り、慎を罵倒する呪いの言葉を聞きながら、底知れない恐怖に花梨は慄いた。
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