闇の向こうから

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 メールは健悟から送られているはずだった。  自分のアドレスの後に英数字の羅列が並ぶ差出人は、別れた元彼のはず。  だがその元彼は今、ドアの向こうで喚き散らしながらドアを殴りつけている。とても携帯電話を操作する冷静さがあるとは思えなかった。咄嗟に指を止めて、花梨は息を飲んだ。寒気がした。異常な速さで脈打ち始めた心臓の鼓動と、健悟がドアを叩くリズムが重なり合う。ドンドンと響く打音を聞きながら、花梨は震える指でメールを開封した。 > 心配するな そいつは俺が片づけてやるよ 「――ッ!?」  口から漏れそうになった悲鳴を、花梨は咄嗟に手で塞いだ。    差出人は健悟じゃないの!?    花梨は身震いした。    自分を監視し、真夜中にスマホの向こうから囁きかけてくる者が、見知らぬ"誰か"だったのだとわかった途端、生々しい恐怖が襲い掛かってきた。もはや画面の文字が歪んで見える程に体が震えていた。  その"誰か"は、今も自分を見つめている。  闇の向こうから、こちらをじっと眺めている。  宵闇の奥で光る怪しい眼を想像した瞬間、無意識のうちに慎の携帯番号を探していた。元彼に追い詰められ、得体の知れないストーカーに監視されている板挟みの状況で、頼れる人など慎しかいなかった。画面に表示された番号の下、緑色の通話ボタンを弾こうとしてふと、花梨は異様な静けさに気がついた。  暗い室内から、いつの間にか騒音が消えていた。  ほんの一瞬、助けを求めるのに気を取られた隙に、今まで反響していた罵声と打音が失せて、代わりに不気味な静寂が沈んでいる。  花梨はおそるおそるドアに歩み寄った。足音を立てないようにそっと近づき、吐き気がするぐらい早く脈打つ心臓を片手で押さえながら、ドアの覗き穴に片目を寄せる。  誰もいなかった。  斜め向かいの外灯がアパートを照らしているので、視界は良い。淡く灯る外灯の明りの中に、人の姿は映ってなかった。よくよく神経を研ぎ澄ませてみても、外に人の気配は感じられない。寸前まで確かにここで、健悟が怒りをぶちまけていたはずなのに。  その健悟は、メールにあった通り消えてしまっている。 「……健悟……?」  唾を飲んで、花梨はドアノブに手をかけた。この際、外にストーカーがいるかもしれないとは考えなかった。そこまで気を回す余裕もなく、静かにカギを開けると、花梨はゆっくりドアを押した。  少し肌寒い夜風が吹きつけてくる。  外には誰もいなかった。  ただそこに、健吾の存在感が置き残されているだけ。 「健悟のカバンっ……!?」  花梨は裸足のまま踏み出して、ぽつんと残されたカバンを拾い上げた。周囲は闇に包まれ、人の姿はない。  健悟はどこへ行ったんだろう?   いや、誰に連れて行かれたのか―――  健悟のカバンを胸に抱いて、花梨は辺りを見回した。  静まり返った闇の中には、微かだがはっきりと、狂気の余韻が残っていた。
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