カタルシス

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「ムリしなくていいんですよ?」 「してないです! 私っ、先生と一緒にクラシック行きたいですっ」    ほんの少し強張った慎の顔が、ほんのり赤くなったように見えたのは西日のせいだろう。綺麗に並んだ歯を薄っすら覗かせて、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。 「ありがとうございます。僕に趣味に付き合って下さって」 「お礼を言うのは私の方ですよ。診療時間外なのに、わざわざ街まで出てきてくれて……」 「仕事じゃありません」  森の方から吹き流れたそよ風が、庭の花々を優しく揺らした。慎の前髪が揺れた瞬間、黒縁の眼鏡が微かに見えた。ほんの一瞬だったけれど、眼鏡の奥の瞳はこちらを優しく見つめていた気がする。 「米里さんは確かに患者さんですが、週末はプライベートな外出です。治療をするわけじゃありません。米里さんは僕にとって大切なクラシック仲間です……コンサート、楽しみましょうね」 「そ、そうですね」  慎の言葉が、告白のように聞こえたのは自惚れだろうか。どんな反応をするのが正しいのはわからず、花梨はただ、微笑みながら温くなった紅茶を啜った。  結論からいうと、人生初のクラシックコンサートは半分も聴かずに終わった。  土曜の夕方、悩み抜いた末に選んだ水色のワンピースを着て、待ち合わせのコンサートホールに行った。15分前に着いたのに、慎は既に到着していて、待たせたことを謝ったら、「開演前にパンフレットを見ながら音楽を想像するのが好きなんです。だからいつも早く来るんですよ」と、さりげなく気を遣ってくれた。  クラシックの生演奏も初めてなら、コンサートホールでの音楽鑑賞も初めて。ホールの優美な雰囲気や独特の香りなど全てが新鮮だった。最初は少し緊張したけれど、迫力のある音色と爽快感が心地良かった。  それが悪かったのだと思う。  始まって間もなく、気持ちのいい眠気が意識を包み込み、完全に視界が暗転した後、目覚めた時にはステージに幕が降りて会場の観客が退場し始めていた。しかも、図々しく隣に座る慎の肩を枕に代わりに使用。無礼を詫びたら、「ほら、薬がなくても眠れたでしょう? クラシックは副交感神経にいいって言ったじゃないですか」と笑ってくれたのが救いだった。 「本当に、すみませんでした」  外に出てからもう一度、花梨は深々を頭を下げた。 「先生が演奏曲について色々と説明してくれたのに、私、ほとんど聴けてなくて……」 「そんなに謝らないで下さい」  言って、慎は困ったように頭を掻いた。 「僕は全く気にしてませんから。まあ、ちょっと嫉妬はしましたけどね」 「嫉妬? 私にですか?」 「いえ、クラシック音楽に」 「はあ?」  視線の先で、慎が悪戯っぽく笑っている。 「僕よりクラシック音楽の方が上手に不眠を治せるんだなぁ、と思ったら、ちょっと妬けました……けど、米里さんが気持ち良さそうに眠っているのを見られて安心しましたよ」  花梨は気恥ずかしげに慎を見返した。少しくすぐったく、甘やかな気分がじんわりと心に沁みる。いつも体調を気にかけてくれる慎の優しさに、胸が熱くなった。緊張感のせいで、話し方もぎこちなくなってしまう。 「あ、ありがとうございます……私のこと、いつも気遣って下さって……あの、よければこの後お食事に行きませんか? 近くに友人おすすめのカフェバーがあるんです。いかがですか?」  慎がチラリと腕時計を見た。 「もう9時か……」 「何かご予定がありました?」 「いえっ、その……予定というか……いや何でもありません。そうですね、お腹も空きましたし行きましょうか」 「じゃあ、急いで向こうに渡りましょう。信号が赤になる前に」  慎の様子が少し気になったけれど、あえて頓着せず、花梨は点滅している横断歩道を駆け足で渡った。ずっと行ってみたかったその店は、創成川の東側にある。思えば外食自体、健悟と別れてから初めてだった。寝落ちのお詫びも含めて花梨はご馳走するつもりでいたのだが、慎にやんわりと断られた。対等な関係性を保つ為には金銭的な負担も対等にしたい、というのが理由らしい。  友人おすすめのカフェバーは、ローマ風の趣があった。聖堂を思わせる白いコンクリート壁がレトロな質感を演出し、アンティークの調度品が飾られた棚には色々な酒が豊富に取り揃えてある。本当はビールやウイスキーなどの辛口な酒が好きなのだが、慎に合わせて今日はカクテルを頼んだ。  洋酒を使ったフルーティなカクテルは、ジュースのような甘味と果物の酸味が程よく絡んでとても美味しかった。誰かとこんなふうに食事したのはいつぶりだろう。健悟と付き合っていた頃は、誰かと一緒に出掛けるなんて考えられない生活だったから。  健悟は和食が好みで、イタリアンや洋食からは縁遠い食生活を送っていた。外食は他の男の目が気になるからイヤ。女がパスタやピザを食べる姿が気に入らない………そんな理由でずっと食べられずにいた料理の数々を、今日は思い切って注文した。正直、今でもメニューを見ると心がざわつく。もう食べたい物に文句を言う人はいないのに、それでも店員に注文する時は緊張した。  キノコとサーモンのクリームニョッキ、マルゲリータ、グリルチキン、ボロネーゼ、小エビのアヒージョ―――花梨は半年ぶりのご馳走を控えめに味わった。ちょっとした周囲の物音が舌打ちに聞こえてビクリとしたが、内心の怯えを悟られないよう笑顔を張り付けたまま過ごした。本場ミラノで修行したシェフのイタリアンは絶品で、慎も気に入ったようだ。店のナンバーワンおつまみを上品に食べながら、感嘆するように唸った。 「この生ハム、塩加減がちょうど良くておいしいですね。僕、研修でドイツに行ったことがあるんですが、そこで食べた生ハムと味が似ています」 「ドイツですかっ、凄い。私は高校の修学旅行で行った京都が最長記録ですよ」   「京都かぁ、いいなぁ。僕の高校は行先が海外だったので、寺社仏閣の多い京都旅行は憧れます」  背筋をまっすぐに伸ばす姿勢の美しさや、優雅な振る舞いからは育ちの良さが感じられる。洋服だって清潔感のある控えめなコーディネートでセンスもいいのに、眼鏡が隠れる程の前髪で顔が半分隠れているのが残念―――そんな心のダメ出しを聞き取ったのかもしれない。慎が髪の毛の先を指でいじりながら苦笑した。 「僕ってツムジが2つあるんですよ。そのせいか、前髪がどうしても顔に被るんですよね。学生の頃は小まめに切ってたんですが、勤めてからは時間もなくて放っておいたらこんな感じになりまして……ダサイですよね」 「ダサくないですよっ。ちゃんと似合ってますっ」  花梨は慌てて褒めた。見た目は地味だが相手は心の傷を治す専門医。何気なく会話しているように見えても、表情や声のトーンから心の動き感じ取っているらしい。自分の迂闊さに肩を竦めながら、花梨は営業用の笑顔を添えてフォローした。 「今って無造作ヘアが流行ってるじゃないですか。会社の若い男性社員も先生みたいな感じの人いますよ」 「僕、もう30過ぎたオジサンなのに、若い子と同じ髪型って……なんか、痛々しい感じですね」 「そんなことないですよっ、30歳はオジサンじゃないですっ」 「なら、米里さんの感覚でオジサンは何才からなんですか?」 「え゛……」  どうしよう。花梨はちょっと悩んだ。そんなの考えたこともない。 「何才からって……35歳……くらい?」 「ハァ……そうですか」  対面で、暗い影を背負いながら慎が溜息をついた。 「僕、ちょうど35です。25歳の米里さんから見れば、そうですよね、10歳も上はお父さんみたいなもんですよね」 「やっ、ごめんなさい! 知らなくてっ。でも先生は若く見えますよっ」 「ありがとうございます、気をつかって頂いて」 「違いますよっ、本当に若く見えますっ。ほらっ、今流行りのイケオジってやつです!」 「それは何ですか?」  真面目に質問されて困った。動揺しながらも、花梨はできるだけ丁寧に説明した。 「イケてるオジさんの略語で、人生経験が豊富で内面も素敵なオジサマのことです」 「結局はオジサンってことですよね」 「う……まぁ、そうですけど、でも先生は実年齢よりずっと若々しいですよっ。髪型だけ見たら韓流スターみたい!」 「髪型だけスター、ですか……」 「あ゛……」  言葉の使い方って難しい。雪崩に巻き込まれたような重苦しさが体に圧しかかってくる。ほとんどヤケクソで、花梨は沈鬱な空気を振り払うように声を張り上げた。 「たっ、たとえ35歳で髪型だけスターでもっ、先生は凄く素敵です!!」  瞬間、店内の視線が一気に集まった。夢中で気づかなかったけれど、かなりの大声だったみたい。遠くの入り口付近で清算中のお客までが、興味深そうにこちらを見ている。カっと顔が熱くなった。花梨はいたたまれずに俯いた。 「いや、あの……私はただ、先生が……」  自分でも、何を言おうとしているのかわからない。周囲はすぐに関心をなくして歓談に戻ったが、恥ずかしくて顔を上げられなかった。慎はどう思っただろう。長い前髪に隠れた眼鏡の奥で、どんなふうにこちらを見ているのか―――ふと、小さな笑い声が聞こえた。 「そんなふうに褒めて下さって、ありがとうございます」  恐る恐る顔を上げると、慎の口元には優しい微笑が広がっていた。
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