パン売りハッサンのガンドゥギレシピ

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

パン売りハッサンのガンドゥギレシピ

都の大路の西側にある市場街。その一角の家畜を扱う市場で、青年アスランは、ほっと胸をなでおろしていた。 今朝、まだ夜が明けないうちに家を出て、手塩にかけた羊二頭をなんとか希望の値で売ることができたのだった。 アスランは手にした金を丁寧に懐へしまい、大路へと向かう。 大路へ足を踏み入れると、露店がずらりと並び、食べ物の匂いがアスランを出迎えた。東西の交易の中心地であるこの都には、多種多様の食べ物が集まる。 この匂いは鶏肉に甘辛いタレをつけて焼いたもの――すぐに腹が鳴った。 あまり高いものには手が出せないが、こうやって都で仕事をしたときだけは、何かひとつ買い食いすることを自分に許している。 もちろん、家族にも土産に持ち帰る。 「そこの方、パンはいかが? なんてな」 聞いたことのある、陽気な声。振り向く前に父だとわかる。 案の定そこには、丸々とした体形でひげをたくわえた、父ハッサンがいた。突き出た腹に首から掛けたカゴを乗せて、パンを山ほど入れている。 「父さん、またそんなもの売り歩いて。それより羊の世話をしてくれよ」 「すまんな。でも羊のことはお前の方がうまいからなあ。腹減ったろ? ほら、なんか食うか?」 「いらないよ。都風のパンは好きじゃない」 アスランの言葉に、ハッサンが大声で笑った。 「そうかそうか。じゃあお前にもこっちのをやろうかな」 カゴの中を漁るハッサンは破顔し、実に嬉しそうだった。 「いらないってば。パンの気分じゃないんだ」 いいからいいから、と構わずカゴを漁っていたハッサンだったが、向こうに知り合いを見つけたらしく、 「じゃあこれ。気をつけて帰れよ!」 つかんだものをアスランに押しつけ、慌てて走り去っていった。 「なんなんだよアイツ、パンよりも家の仕事をしろよ!」 舌打ちすると、背後から 「ねえ、お兄さん」 と声がした。振り向くと、十四、五の少女が大きな黒目でアスランを見上げている。 黒髪、黒い瞳。日に焼けてはいるが、アスランとは違う、薄い色の肌。着ているものは、染めていない白い麻。――この国出身の農民か。家畜の市場の隣は農産物の市場だから、そこへ来た帰りなのだろう。 「立ち聞きするつもりはなかったんだけど。それ、いらないなら私に売ってくれない?」 指差された「それ」とは、ハッサンが押しつけたパン。――いや、「パン」ではない。ふんわりやわらかい茶色の生地に、ゴマとクルミが乗っている。 「……ガンドゥギか」 「それ、ガンドゥギって言うの? 初めて見るパンね」 「いや、パンっていうか……まあ、パンかな。蒸しパンだ」 「おいしそう。ハッサンの新作かしら」 「いや、これは……俺の祖国では当たり前のものだ」 アスランは幼い頃、家族とともに祖国を出て、この国へ移り住んだ。都から離れた土地で羊を飼い、つましい生活をしている。 このガンドゥギは祖国ではおなじみのもので、どこの家でも作っていた。 小麦粉、黒糖、膨らし粉を水で練った生地に、ゴマやクルミを乗せて蒸す。食卓にも出るし、客人が来たときや、農作業の合間に食べることもあった。 「ハッサンのパン、私、好きなの。あ、パンって言うよりハッサンの人柄が好きなのかな。パンはちょっと高いんだけど……」 「高い?」 ではそれなりに稼いでいるのか? その金はどうしているのか。 「でも私にはいつも、安く売ってくれたのよ。ハッサンってやさしいわよね」 それでは結局、儲かっているのか損しているのかわからないな、と思いながら、アスランは持っていたガンドゥギを少女へやった。 金を出そうとする少女へ、いいよ、と断る。ガンドゥギは飽きるほど食べているからと。 「あなた、ハッサンの息子さん?」 アスランの緑色の瞳をのぞき込んで少女が聞いた。緑色の瞳、濃茶の髪、褐色の肌は、ハッサンも同じである。 「いいわね、好きなときにこれを食べられて」 「全然良くない。裕福でもないのにこんなのばっかり作りやがって。少しは家の仕事をやれってんだよ」 弟妹たちも手伝ってくれるが、まだ幼い。母も力仕事に向いているとは言えない。労働力として数えられるのはアスランとハッサンだが、そのハッサンはせっせとパンやガンドゥギを作っては都へ出かけてしまう。 「あなたがしっかりしてるから、ハッサンは安心して自分のことをやれるんじゃない?」 「冗談じゃない! 父親があんなだから、他の家族がしっかりするしかないんだ」 アスランのいら立ちに気付かず、ふふ、と少女が笑う。 「でもうらやましい。私の父は、三年前に亡くなってしまったから。親子げんか、もっとしたかったなあ」 人の気も知らないで―― 無性に腹が立ってきた。 「ハッサンを大切にしてね」 「だったらお前が娘にでもなればいい! 父親がいないからって自分の方が不幸だと思うな! 生きてたら生きてるが故の苦しみがあるし、生きてる限り汚れていく! 良かったな、嫌な面を見る前に父親が死んでくれて!」 ――言いすぎた。 気付いたときには、もう遅い。 「ご……ごめんなさい……」 顔面蒼白で小さく言い、衆目にさらされた少女は踵を返して走り去った。 「俺は何を……あんな子供に、本気で怒鳴ったりして……」 父親がいないつらさと、いるつらさ。 どちらの方がつらいかなんて、比べられることではないのに。 それから半月後―― その日ハッサンは、帰って来なかった。 都へパンを売りに行ったはずだった。 とっくに日も落ち、弟妹を寝かしつけ、アスランが母と顔を見合わせいよいよ心配しだした頃、突然外からドアをけたたましく叩かれた。 アスランと同じ色の、髪、肌、瞳――同胞と思われる中年男が、息を切らせて告げた。 ハッサンが亡くなった、と。   * 知らせを受けてすぐさま都へ上ったアスランは、目の前に横たわる、息をしていないハッサンと対峙していた。 「夕方ね、倒れたの。大路で。胸を押さえて……。近くのお医者のところに運ばれたんだけど、でも……あっという間だった」 以前大路で出会った少女が、それまでの経緯を説明してくれた。倒れてからずっと、ハッサンのそばについていたらしい。 「この前は……悪かったな。怒鳴ったりして……」 ううん、と少女が首を振る。 少女の父親がどういう理由で亡くなったかは知らないが、きっとそのときの自分と重ねてアスランを気にかけてくれるのだろう。 そばにいたのは少女だけではない。同胞と思われる者たちが何人か、ハッサンのそばで涙を流していた。 「これ……ハッサンが、あなたにって……」 少女が、一冊の帳面をアスランにそっと差し出した。 「俺に……? なんだ、これは……」 心ここにあらずで、それを受け取る。かなり使い込まれていて、角がボロボロになっていた。 「パンとガンドゥギのレシピみたい」 「――は?」 「倒れたとき、意識がもうろうとしてたけど、ハッサンがこれを握りしめて、『息子に』って……」 そのときの光景が、アスランの脳裏に勝手に想像される。 「なんでだよ……」 帳面を破り捨てたい気持ちに襲われる。 「こんなものがなんだよ! 最後までガンドゥギの方が大事かよ!」 ハッサンの死を悲しむ涙は、アスランからは流れなかった。ただただ、憤りと、失望しかない。 目覚めぬハッサンをアスランと一緒に家まで運んでくれたのは、このときそばで泣いていた同胞たちだった。   * 父ハッサンの葬儀の日、この国のどこにこれだけいたのかと思うほど、同胞たちが集まった。同じ色をした髪、肌、瞳の者たちが皆、涙を拭いながらハッサンに別れを告げている。 それが済むと、彼らはアスランを取り囲んだ。 「君が『自慢の息子』のアスランだな。ハッサンからよく聞かされてたよ」 「ハッサンのことは本当に残念だった。寂しくなるだろうが、俺たちがいるからな! 何か困ったことがあったら言ってくれよ!」 「あ……あの、皆さんは……父とはどういうご関係ですか?」 アスランが尋ねると、皆、照れくさそうに笑った。 「見てのとおり、俺たちは同胞だ。この国に移り住んだ時期はいろいろだがな」 「少しでも豊かになるようにと移住したものの、皆、苦労ばかりしていてな」 「そんなときハッサンと出会った」 「ハッサン、パンを売るかたわら、俺たちのためにいつもガンドゥギを持ってきてくれてなあ……」 「そうそう。ちゃんと食べてるか、腹減ってないか、お互い頑張ろうな、またここで会おうなって……タダ同然でくれてな」 「しまいにゃ、お前んちではどんなガンドゥギだったかって聞いてさ。次会ったときにそれ食わせてくれんだよ。俺、独り身だからさ。国を思い出して泣いちゃったよ」 パンの売り上げは、同胞たちへのガンドゥギに化けたのか、とアスランは合点がいった。 「そんな世話焼きのハッサンも、病気には勝てなかったな……」 「でも病気だってわかってからも、家族のために世話焼いてたよな」 「え……父は自分の病気を知っていたんですか?」 「ああ。前にも一度、倒れてな。俺は家族に言うべきじゃないかって言ったんだが、どうしても聞かなくてな」 「いつも苦労かけてる息子に、ますます苦労かけることになる。だから俺が死んだら、すまないが息子を助けてやってくれって。そのことに一生懸命でな……」 すまないことなんてないのにな、と誰かがつぶやき、皆がうなずいた。 その中の一人、まとめ役のような中年男が前へ出て、アスランへ紙の束を差し出した。 「これ、受け取ってくれ。俺たち全員の住所と地図が書いてある。――本当に、遠慮なく頼ってくれて構わないからな、アスラン」 紙の束を受け取る。一枚一枚に名前と住所、地図が書きつけられ、厚く膨らんだ紙の束を。 「お前は俺たちの家族だからな」 「決して、独りじゃないぞ」 「頼ってくれなかったらハッサンが化けて出るしよ」 「ま、たまには化けて出てもいいけどな」 冗談に笑い声が起こる。 「ありがとう……ございます……」 紙の束を抱きしめ、アスランは深々と頭を下げた。 父としてのハッサンは、今でも思うところはある。だけど―― だけど、自分が知らないところで、父さんは父さんなりに家族のことを、俺のことを、思っていてくれたのだ、とアスランは思った。 顔を上げると、大勢の同胞たち――自分を「家族」だと言ってくれる人たちがいる。今この人たちがここにいてくれるのも、父ハッサンあってのこと。 「これからどうかよろしくお願いします。そうだ、俺の家族を紹介します。皆さん、どうぞこちらへ――」 父ハッサンが逝ってから初めて、涙がアスランの頬を伝っていた。   * その後アスランは、時折父のレシピを見てガンドゥギを作るようになった。ガンドゥギの蒸し上がる匂いがするたびに、父ハッサンがその場にいるようだった。 「あの子の言うとおり、親子げんか、もっとしておけば良かったな」 笑いながら、アスランは懐かしいガンドゥギの匂いを吸い込んだ。 手慣れてくると、都の人々にもガンドゥギを売り始めた。 「アスラン! パンを焼き始めたの?」 少女とはその後も都で時々会う。 「パンは焼かない。ガンドゥギだけだ。これ、ひとつやるよ」 「いいの?」 「いいよ。お前も家族みたいなものだからな」 「えへへ、ありがとう」 「――ガンドゥギだけじゃ売れないだろう?」 アスランを見つけた同胞――いや、新しい家族たちも、声をかけてきた。 「そうでもないですよ。移民が必死に都風を真似て焼いたパンよりも、『異国の蒸しパン』の方が物珍しさでよく売れるんですよ」 「なんだ、ハッサンより商売上手じゃないか。――ああ、このクルミ、少し持っていけ」 「助かります。ガンドゥギ作ったんで、良かったら味見してください」 「お、いただこうか。――うん、この香り。ハッサンが生き返ったようだな」 破り捨ててやろうかと思ったあのレシピも、今では立派な家宝だ。 「ああそうだ、あっちに新顔がいたぞ。十になったかどうかの少年だ」 「そうですか。じゃ、ちょっと行ってみます」 そして父のように、ガンドゥギを分け与えることも続けている。 「やあ、君が新しくこの国へ来た子だね? おなかすいてないかい?」 腹をすかせた同胞は、皆、家族だから。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!