0人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
<「ありがとう」が言えない>
中学生に進級するのとほぼ同じタイミングで、俺の反抗期が始まった。
思い起こせば、小学生の時ですら、父が大好きで父にべたべた甘えた、いう記憶はない。
父が好きなのは弟。俺は好かれていない。
いつだって、そう感じていた。
中学1年の年末年始。
父が予約した会社の保養所。人気で倍率の高い箱根の保養所を、その年も父が家族4人分予約していた。
どんな理由だったのか覚えていない。
反抗期の俺はただ、「行きたくない!」と言い張った。
その結果、父と弟が箱根、母と俺は渋谷の映画館で映画を見ることになった。
見た映画が何だったのか、覚えていない。
大人になった今、当時のことを思い出すと、胸が痛い。
父はどんな気持ちだったのか。母はどんな気持ちだったのか。そして幼い弟はどんな気持ちだったのか。
その年の7月、俺の林間学校出発の日の朝、
父の実の弟である叔父から電話があり、父が病院で他界したことを知らされた。
今でも忘れない、その時の俺の心の中の気持ち。
父が死んだことよりも、林間学校に行けないことを悲しんでいた。
「罪と罰」という言葉をまだ意識できない頃であったが、
林間学校の宿泊先である箱根に行けなくなったのは、
年末年始の箱根への家族旅行を断った、という俺の罪に対する、
父から与えられた罰だったのかもしれない。
父の死の知らせはすぐに広がり、日本全国から親戚が集まった。
悲しむ親戚を目の当たりにし、俺の気持ちの中にも、父親を亡くしたという実感が沸いた。
そのあと2日間、ずっと泣き続けた。
もし、年末年始の箱根が、最後の家族旅行だと知っていれば、行っていた。
もし、父がこんなに早く亡くなると知っていれば、もっと優しく接していた。
…こんなこと、後から何とでも言える。単なる「たられば」にすぎない。
ただ、父の気持ちを考えると、本当に悲しかった。
朝のテレビ番組や時計を見て、午前5時15分だ、と気づいたとき、手を合わせて父を思う。
ほぼ毎年、九州で眠る父の墓参りをし、手を合わせて父を思う。
そんなとき、俺が唱える言葉はいつも、「ごめんなさい」なのだと、ふと気づく。
生んでくれて「ありがとう」と言うべきかもしれない、と思い、
最近では「ありがとう」と唱えるように心がけているが、
今でも気づけば「ごめんなさい」と言っている。
45という年齢で逝ってしまった父の晩年を、不幸なものにしてしまった、
という罪悪感から出る言葉なのかもしれない。
それまでは真面目な印象だった俺が不良化したことを、父の死のせいにして、
母を困らせ続けた、という罪悪感から出る言葉なのかもしれない。
いや、そうではない。
最初のコメントを投稿しよう!