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1章 Drop.1
紫陽花が綺麗に咲き誇るこの季節、時期は梅雨を迎えていた。今日もシトシトと雨粒が地面を打ち付け、ひっそりと営む珈琲店のBGMとなっていた。
珈琲店が佇むのは、鎌倉の奥地にある紫陽花が綺麗な場所だ。店の敷地内にももちろん紫陽花があり、お店の窓から見れば1枚の絵画のように美しく魅せる。こんなに綺麗な場所だからこそ、珈琲店を営むのに素敵だと選んだ。
雨の天気が続く梅雨の季節だが、梅雨は大きな芸術だと思っている。雨は地面や屋根を叩き、風は木々や建物の間をすり抜け調和し、地面の水溜まりは両脚でちゃぷちゃぷと鳴らし自然のメロディーを奏でる。紫陽花は美しく咲き誇り、虹は幸せの架け橋として現われ見る者の目を癒す。窓にぶら下げたてるてる坊主は「素敵な芸術が見れますように」と願いが込められた珈琲店の梅雨限定マスコットになっている。
拘り抜いた独自のブレンドコーヒーのみを販売する1点ものの洒落た珈琲店を営むのは、御歳40歳の栗平藍介。梅雨の時期、今日も今日とて変わらず営業を始めた。一段と激しく雨が降り注ぐ今日、店の外にいかにも珈琲の味を知らなそうな若者立っていた。若者は再び、この珈琲店へ赴き、迷わずカウンター席へ座ると此方へ視線を向けてきた。たまたま視線が合ってしまい、紳士に営業スマイルを顔に貼り付けた。そのスマイルを見た若者はすぐ視線を落とし、ど真ん中に「ブレンドコーヒー」と書かれていたA4サイズのメニュー表を見て、程なくして顔を上げ、口を開いた。
「ブレンドコーヒーひとつ。おじさん、このブレンドコーヒーだけで店をやってるんだな、勝負魂すげぇ」
再びメニュー表を見てはフッと煽るように笑った。
「勝負などしていない。俺は俺の珈琲を出す、それだけだ。君みたいな若造が珈琲の味分かるのかい?」
虫の居所が悪くなるところを抑え、笑みを浮かべ返した。注文された珈琲をハンドドリップで丁寧に注ぎ、若者の前へスッと静かに提供した。
若者は藍介の言葉を相槌打ちながら聞き、提供されたブレンドコーヒーへ鼻を近づけ息を吸い、それからひと口啜り飲み、覚えのある香りと味に目を大きく見開いた。
「この香り、この味……俺知ってる。昔、同じ香りをこの鼻で感じたことある」
若者はもう一度、香りと味を確かめるように五感を研ぎ澄ました。
若者の発言に驚いた藍介は徐に口を開きこう言った。
「……それはいつ頃の話だい?君の名前はなんて言うのかな?」
「10年前。俺の名前は類、苗字は離婚して宍倉に変わった」
ひとつ、またひとつと藍介の記憶の中の糸と結びつき、確信に迫る事実としてあと2つ類へ質問した。
「……離婚、する前の苗字はなんだったんだい?今はいつくかな?」
「離婚する前は『栗平』歳はもう20歳になった。もう気づいてるんだよな、おじさん。」
「……」
「おじさん?俺、おじさんの息子の類。」
そう言うと類はカウンターから身を乗り出して藍介の胸ぐらを掴むと強引に引き寄せ唇を奪い数秒触れるだけの口付けをした。
「……っはぁ……まっ、待ってくれ……状況理解が追いつかん。この場所も教えてないのに、な……っ、なんでかな?」
こんな事ってあるだろうか。前妻と離婚したのは今から8年前、離婚後は連絡も取っていなかったし会うこともなければ住居も教えていなかった。それなのに今、息子だという類が目の前に居る、そして突然口付けをされた。
さらに記憶の糸が結びつき、一度に得た情報が8割がた事実を証明するものだった。しかし、突然息子だと現れた類を目の前にただただ驚き、心情は嵐のように波立っていた。カウンター越しにブレンドコーヒーを飲む類の姿を目で捉えながら仕事の手を動かし穏やかではない心を落ち着かせようと必死だった。
「もう20歳だよ、それに今は色々と便利な時代だから、おじさんを見つけ出すのも朝飯前。今日は伝えたい事あってわざわざ来たんだ」
類はまたひと口啜り飲むと僅かに眉間にシワを寄せ真剣な面持ちで言葉を続けた。
「母さん、病気なんだよ。幸い初期段階で見つかって今治療のために入院してる」
「そうか……」
「母さん言ってたよ。『藍介さんのコーヒー……飲みたい、元気になれる気がするから』って」
「はは、そんな……まさか」
思わず仕事の手が止まってしまった。病気だと聞いて心配になり、そのあとの言葉には何も返す言葉が浮かばなかった。
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